何冊よめるかな?

本棚の肥やしと化した本たちを供養するため始めたブログ

13冊目 氣の呼吸法

『氣の呼吸法』藤平光一 著、読了

2月に体調を崩してから、未だに調子が完全には戻っていない。本書の副題は「全身に酸素を送り治癒力を高める」というもので、呼吸法を取り入れることで本来の体調を取り戻せればと思い、本書を手に取った。

私は以前から、「呼吸法」には少し興味があった。これまでにも導引術や仙術、瞑想など入門書を何冊か読みかじってきた。そうした入門書には、「何秒吸って何秒吐く」「鼻から吸って口から吐く」「丹田に力を込める」「脚の組み方」などの具体的なメソッドが記されてはいた。ただ、いざ実践する段になると、書籍に書いてあるとおりに、きちんと身体を使えているのか心許ない。やはり本を読むだけでは身体感覚は身につかないのではないかと疑心暗鬼に陥ることが多かった。

本書では、そうしたメソッド(例えば「ドコドコに力を込める」など)はかえって身体に不自然な緊張を生み、氣の巡りを阻害する元になると批判する。そして、著者の提唱する「氣の呼吸法」はそうした緊張を強いるものではない、という。

では、「氣の呼吸法」とはどのようなものだろうか。一言でいうと「正しい姿勢をとって、自然に呼吸をする」というものに尽きる。(このように一言で要約するというのは、著者の意図に反した省略や曲解が含まれるかもしれず、ある意味、卑怯なのかもしれない…)

さて、病院などで、「力を抜いてください」と言われて困った経験はないだろうか。意識しないようにと思うと、かえって意識をしてしまうというのは、人間の困った性質のひとつかもしれない。だから、「自然に呼吸しましょう」といわれても、その「自然」が私にはわからない。そんなわけで、本書の提唱する「氣の呼吸法」は私には難しそうだなと思った。さらに言えば、副題を見るかぎり、「氣の呼吸法」を実践すれば、治癒力を高めることが期待できるのであろうが、それがどういう生理学的機序に基づくのかという説明が、本書にはいささか不足している気がした。

著者は「氣の呼吸法」の実践者である。著者は「氣の呼吸法」が正しく行われているかどうかを、自分自身の身体感覚(暗黙知の次元)で判断できるだろう。でも、私には正しい呼吸ができているときの身体感覚はインストールされていない。今、マインドフルネスが注目されているが、その元となったヴィパッサナー瞑想は、「こういうときはこうしましょう」という具体的な対処法がメソッドとして確立されている。その具体性ゆえに、初心者にも取り入れやすく、広まっているという側面もあると考えている。

あるメソッドのために不自然な緊張が生まれるというデメリットもあるだろうし、かといって「自然に」といわれても、具体的にどうすればいいのかわからなくなってしまう…なるほど難しい問題だ。私はある技術を必要とする職に就いているが、技術の伝承とは、師から弟子への身体感覚の移植と言いかえることができるだろう。本書を読みながら、身体感覚を言葉で伝えることの難しさについて、改めて考えさせられた。

12冊目 談志の十八番

『談志の十八番 必聴!名演・名盤ガイド』 広瀬和生 著、読了

 落語に滅法詳しい芸人のサンキュータツオさんが、確か本書を推薦図書として挙げていた気がする。それで本書を手に取った。

子供の頃、祖父の膝の上で、テレビで演っている落語をよく見たものだ。当時は春風亭柳昇や柳屋小三治がお気に入りだった。そんなだから、落語に対して、難しそうとか、古典芸能然とした敷居の高さは感じないで育った。もちろん、立川談志というアクの強い噺家の存在も、子どもながらに知っていた。

20代前半だったろうか、談志が「ミリオネア」に出演しているのを偶然見た。談志は、獲得した小切手をその場でビリビリと破り捨てて、みのもんたの前から去っていった。それを見て私は反感を持った。仮にそういうお金の入り方を良しとしない主義を持っているにしても、何もみんなの見ている場で破り捨てないでもいい。一人でこっそり捨てるなり、焼くなりすればいい。人前で破り捨てるところに、わざとらしさやいやらしさのようなものを感じた。

それから数年後、読書習慣をつけようと、手当たり次第に本を読む生活の中で、爆笑問題の著作を何冊か読んだ。そして、太田光が談志のことを絶賛しているのを知った。談志もまた、太田のことを絶賛しているらしいことも知った。「嫌味なおっさん」という印象くらいしかなかった談志だったが、太田が尊敬する噺家ということで気になる存在になった。そして、あの「落語とは業の肯定である」という警句に出会った。衝撃だった。すごい言葉だ!談志って、こんなすごいことを考えている人だったんだ!

さらに時代が下ってYouナントカTubeが観れるようになると、談志の落語を観るようになった。(幼少期を除いて)はじめて聴いた談志の落語は「やかん」だった。これまた衝撃だった。すごい!凄い!Sugoi!

私は子供の頃から、落書きが好きだった。授業中はほとんど落書きをしているような子どもだった。で、落書きをはじめると、近くにいるクラスメイトに、「何を描いてるの?」と訊かれることが時々あった。でも、そういうときって、特に何かを描こうと決めているわけではない。手慰みというのか、目的もなく、何とはなしに線を引いていると、それが次第に像を結んでくる。それだけのことだった。そんな経験やら何やらが積み重なって、私は次第に、因果律というものに不快感を持つようになった。そんな思いから、以前、「因果律端から否定してやろう寝乱れている夜の企て」という歌を詠んだこともある。モノゴトには必ず理由がある。そういう考え方に疑問を持ち、理由のない世界、理不尽で混沌とした世界に真実性を感じるようになっていった。

談志の「やかん」は、そんな私の思いを大肯定してくれるものだった。私の「因果律の否定」というテーマを、談志は「イリュージョン」という概念をつかって代弁してくれているように感じた。それから、談志の落語を毎日のように聴くようになった。談志師匠には申し訳ないと思いながらも、生の高座を観に行ったり、CDを買うことができない貧乏な私は、YouナントカTubeで聴くことしかできなかったが、それでも談志の持つ凄さは、十二分に感じられた。好きな噺は、「やかん」「松曳き」「粗忽長屋」「野ざらし」等々だ。聴くたびに発見があり、談志の芸の細やかさや奥深さが感じられて、飽きるということは全くなかった。

談志はまた、「芸術には狂気が宿っていなければならない」という主旨の発言をしている。それも私をして激しく首肯させる了簡のひとつだ。そう、「了簡」なのだ。「世界観」とか「人生觀」というと大げさになってしまうから、「了簡」という言葉がピッタリだと思う。僭越ながら私の了簡、つまりものごとの見方と、談志のそれは似ている気がする。本書の中に、ただ善人だけが出てくる人情噺を、談志が徹底的に嫌ったことが示されているが、そういう了簡に、私はいちいち共感を覚える。そして、今ならわかる。小切手を破った談志に対する私の負の感情は、同族嫌悪だったのだ。

本書は、タイトル通り、落語入門者に談志を聴くならこれを聴くといいですよ、というガイド本だ。談志が得意とした噺のあらすじ→その噺が収録されているメディアのリスト→各口演の解説→談志以外の噺家による同じ噺が収録されているメディアの紹介(談志との差異の解説)というのが本書の大まかな流れだ。それを通じて、談志の中心的な了簡である「業の肯定」「イリュージョン」「江戸の風」などの解説がなされており、談志の了簡の変遷も知ることができる。

演者としても、批評家としても、作家としても超一流だった「本物の落語家」立川談志。落語的リアリズムを追求し続けた、談志のエッセンスがわかる一冊だった。

談志の十八番?必聴! 名演・名盤ガイド? (光文社新書)

談志の十八番?必聴! 名演・名盤ガイド? (光文社新書)

 

 

11冊目 とめられなかった戦争

『とめられなかった戦争』 加藤陽子 著、読了

著者は歴史学者NHKの番組に出演されているのを何度か見て、その上品なお人柄に惚れてしまった、という少々情けない動機から本書を手に取った。もうちょっと崇高な動機としては、近現代史は、現在の私たちの社会を規定する歴史として、とても重要だと思われるので、それを知りたいというのがある。

本書は、NHKで放映された、「さかのぼり日本史 昭和 とめられなかった戦争」の内容に沿って書かれたもの。私は、この番組自体を観ていないので、書籍化に当たり、どこがどう修正されたのかはわからない。だが、おそらく本書の構成は、番組とそう変わらないことと思う。

本書は全4章から構成されている。著者はまず、戦争終結の可能性という観点から太平洋戦争を振り返ったとき、サイパン陥落こそがターニングポイントであったと主張する。そこで第1章では、サイパン陥落がどのような意味を持っていたのか、なぜサイパンが陥落した時点で戦争を終結することができなかったのか、という問をたてて論を展開する。続く第2章では、そもそもなぜ国力に圧倒的な差があるアメリカと戦争をすることになったのか、が述べられる。第3章では、日米開戦を招くきっかけになった、日中戦争の長期化が生じた理由が述べられる。最後の第4章では、日中戦争の原因となった満州について述べられる。このように本書は、番組のタイトルどおり、歴史を順々に逆上って見てゆくという構成になっている。

私はチョコレートが好きだ。チョコとカレーとビールがあれば、食に関するかぎり、ほとんど不満はない。チョコレートのあのほろ苦い感じが、私を幸福にしてくれる。だから、チョコレートからビター感を捨象した、ホワイトチョコレートの存在はちょっと受け入れがたい。しかし、世の中にはホワイトチョコ派が確かにいる。ビターなチョコ原理主義な私からすれば、大げさに言えば、ホワイトチョコ派は邪道だという気もする。たかがチョコレートの好みひとつとっても、このように意見が対立する。これが宗教観や国家観、政治信条のような事柄ともなれば、その対立は凄まじいものになるだろう。それらは、ヒトの世界観、人生観を大きく左右するからである。

歴史観というのも、ヒトの世界観を大きく左右するもののひとつだといえるだろう。ひとつの歴史的事実をどう解釈するかは難しい。客観的な歴史というものが成立するのかさえ疑わしい。だから、歴史観を巡って意見が激しく対立することも多いだろう。実際、著者の歴史観に対して、左寄り(自虐的)過ぎるという批判を目にしたこともある。私は歴史のド素人だし、先述の通り、著者のお上品な人となりに惹かれて本書を手に取っただけの軽薄な読者なので、ここに記されている内容が、「歴史の真実」にどれくらい近いのか、あるいは遠いのか判断する術は持たない。

ただ一ついえることは、本書が取り上げた時代は、私たちの世代からすれば、祖父母が生きた時代であり、ほんのちょっと昔のことなのにも関わらず、私は当時の出来事に対して、あまりにも無知だったということを突きつけられたということだ。

サイパン陥落が太平洋戦争終結の決定的なターニングポイントであったというのは著者の(もちろん膨大な研究に裏打ちされた)解釈であり、私にはその是非は判断できない。でも、サイパン陥落という出来事があったこと、それにより、米軍が日本本土を爆撃できる拠点を得たこと等々は、解釈を差し挟む以前の(歴史的資料に基づく)事実だろう。そうした事実に、もう少し関心を持つべきだと思った。なぜというに、やはり歴史というのは現在を規定する種または土壌だからだ。歴史の延長上に現在があり、現在の延長に未来がある。その意味で現在を生きる私たちが歴史に学ぶことは多い。ありふれた感想ではあるが、それだけに強く、今までの無知・無関心を反省させられることしきりな読書体験となった。

著者は、以下の言葉で本書を締め括っている。

近代史をはるか昔に起きた古代のことのように見る感性、すなわち、自国と外国、味方と敵といった、切れば血の出る関係としてではなく、あえて現在の自分とは遠い時代のような関係として見る感性、これは未来に生きるための指針を歴史から得ようと考える際には必須の知性であると考えています。

なるほど、私もチョコレートを、切れば血が出るくらいの勢いで好いていたのかもしれない。もう少し知性を発揮して、ホワイトチョコ派と友好関係を築けるくらいの、豊かな感性を養いたいものである。

とめられなかった戦争 (文春文庫)

とめられなかった戦争 (文春文庫)

 

 

10冊目 科学哲学の冒険

 『科学哲学の冒険』 戸田山和久 著、読了

 

私は著者のファンだ。今までにも何冊か戸田山先生の著作を読んできた。私は戸田山節が好きなのだ。

正月から戸田山先生の『哲学入門』を読んでいる。非常に興味深い本だ。入門書とはいいながら、内容はとても濃い。しかも分厚い。だからちょっと難しい。『哲学入門』に挑戦するのは、今度で3回目。回を重ねるに連れて、だんだん理解は進んできてはいるが、第3章辺りから、ちょっと着いていけない感がある。そこで、『哲学入門』をより理解するために、まずは本書を読むことにした。

 

本書は、科学哲学の入門書である。主に科学に対する態度が論じられている。科学に対する態度は、科学的実在論、観念論、反実在論の3つに大別できるらしい。そして著者は、科学的実在論の立場から、本書を通じて、科学という営みを擁護することを試みている。それぞれの立場がどのようなものであるか、といった内容にはここでは踏み込まない。残念ながらおバカな私の頭では、一読しただけでは、踏み込んで感想を述べるだけの整理ができていないからだ。

しかし、本書は 実に面白かった!はじめてとなる今回の読書体験だけでは、この本の内容を血肉化して、自分の世界観に組み込むほど深く理解はできなかったけれども、本書は、今、私が興味を持っていることに、非常に接近した議論がなされていることはわかった。直ぐに再読して、できるだけ血肉化できるように読み込みたいと思った。少なくとも、本書の内容が私の脳髄博士にインストールできれば、私の世界観のヴァージョンアップになること間違いなし!という確信が持てた。ますます戸田山先生のファンになってしまった。 

科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる (NHKブックス)

科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる (NHKブックス)

 

 

8、9冊目 神々の山嶺

神々の山嶺』(上)(下) 夢枕獏 著、読了。

 

ホンタナというpodcastで絶賛されていて、本書に興味を持った。ホンタナ内で、触れられていた著者のあとがきに強く関心を惹かれた。そのあとがきを引用してみる。

書き終わって、体内に残っているものは、もう、ない。

全部、書いた。

全部、吐き出した。

力およばずといったところも、ない。全てに力がおよんでいる。

(中略)

もう、山の話は、二度と書けないだろう。

これが、最初で最後だ。

それだけのものを書いてしまったのである。

これだけの山岳小説は、もう、おそらく出ないであろう。

それに、誰でも書けるというものではない。

どうだ、まいったか。

 著者をして、ここまで言わしめるほどの小説とはどのようなものか。興味を持つなという方が酷だろう。

あらすじを簡単に説明するのは難しい。一つのカメラを巡って、山岳史に残る最大のミステリーを解くことが、物語を進める上でのひとつのエンジンになっている。だが、物語の本質はそこにはない。

山と生活は両立できない。仕事や家族、恋人を取れば、山は捨てるしかない。山を取れば、人並みの生活は失うことになる。山の持つ魅力に憑かれる者は多い。しかし彼らのほとんどは、生活を取る。取らざるを得ない。生きるということは生活するということだ。生活するということは、家族を持つということであり、仕事をするということである。バイトをして金を貯めて、死ぬかもしれない危険を侵して、家族や恋人を不幸にして、山に登ることにどれだけの意味があるだろうか。ある程度の年齢になれば、そんな疑問が頭をもたげてくる。そして、彼らのほとんどは生活を取る。趣味的に山に登れれば、それでいいじゃないか、と。

主人公、深町誠も山に取り憑かれた男である。かといって、山にすべてを賭けられるほどの覚悟は持てないでいる。生活と山、どちらも捨てられないでいる。山で味わった挫折は、山でしか克服できない。それはわかっている。でも、自分にはそれだけの才能はないことも知っている。中途半端なところで、ぶら下がっている。

そんな深町の前に、山にすべてを賭けた男が現れる。伝説の山屋、羽生丈二。羽生の純粋なまでの山に対する姿勢に、揺さぶられながら、自分と山、自分と生活を見つめ直すことになる。

一部の才能を持つものだけが、世界を切り拓いてゆく。そんな世界観を持っている人が多いかもしれない。では、多くの才能を持たざる者たちは、彼らの為す、前人未到の偉業を褒め称えるためだけのモブキャラなのだろうか。私たちのような凡夫は、生活するために生きるだけの人生に満足すべきなのだろうか。一方、世界を切り開く者は、誰もなし得ないことをする者は、満たされているのだろうか。人と違う生き方をすることは、生活を捨てて生きるということは何の不足もないことなのだろうか。

凡夫と天才。どちらも、それぞれに負うた十字架がある。凡夫と天才。本書は、そのどちらの想いも掬い上げて筆にのせている。それがすごい。特に、羽生と深町、それぞれの独白(手記)部分は、本書のハイライトだ。強く揺さぶられる。刻まれる。

何かをあきらめるということは簡単じゃない。何かをあきらめたフリをして、別の大切な何かのために生きようとしている。そうやって納得しようとしている。忘れようとしている。でも、本当はあきらめたはずの何かは、いつまでも心のどこかで、くすぶり続けている。それは、自分の心の中でのことだから、本当には騙すことはできない。

そんなくすぶりが思い当たる人の、それぞれにとっての「山」を、厳しく、切なく、甘く、美しく、残酷に肯定してくれる一冊だった。

おれは、羽生の役はできないかもしれないが、前の女のことも、ついくよくよ考えたり、がんばってしまったり、そういうことをそのまんま抱えたまま、おれは丸ごと、深町誠でいることしかできない

神々の山嶺(上) (集英社文庫)

神々の山嶺(上) (集英社文庫)

 

 

神々の山嶺(下) (集英社文庫)

神々の山嶺(下) (集英社文庫)

 

 

7冊目 喜嶋先生の静かな世界

『喜嶋先生の静かな世界』 森博嗣 著、読了

 

友人の彼女さんがオススメしてくれた本。

著者の半自伝的な小説。研究者としての日常が描かれている。とりたてて大きな事件が起こるわけでもなく、淡々とした日々の物語が綴られてゆく。

日記とは、本来、誰かに読ませることを前提に記される文章ではないだろう。だからそれは、外連味たっぷりで、エンターテインメント性こってりな文章にはならないはずだ。本書を読んでいて、私は、誰かの日記を読んでいるような感覚に捕らわれた。 

私には、自分で「精神の処女膜」と名付けた性質がある。私にとって『カウボーイ・ビバップ』はオールタイム・ベストなアニメ作品だ。にも関わらず、大学当時、はじめて観たときにはピンとこなかった。2回目に観たときに、初めて、「これは名作だ!」と感じられた。つまり、私にとって、初回の体験は、精神の処女膜を破るはたらきしか持たず、2回目以降になって、初めて作品の持つ豊かさを享受できる。そういうことが、往々にしてある。

そんな精神の処女膜を持つ私のことだから、よく読めていないだけかもしれないが、今回、本書を初めて読んだ限りにおいては、主人公が、なぜ初めからそんなに喜嶋先生に魅かれたのかがよくわからなかった。主人公は、特に理由もなく、まるで恋のように、出会った瞬間から喜嶋先生を敬愛していたように思えた。少なくも、喜嶋先生との交流の中で、次第に心魅かれていったという印象は受けなかった。

先に、本書を読んでいて、誰かの日記を読んでいるような感じを持ったと記した。本書を、個人の内面を吐露した日記だとすれば、そこに示される主人公の内面は、常にいたって冷静だ。文章から読み取れる彼の内面は、静か過ぎるほど静かな印象をもって綴られている。

文字を読むのが苦手だった幼少時代や、さらに他者の感情を読む能力に乏しいことなどを加味すると、ある種の人格が欠落しているがゆえの静けさのようにも思われた。自分に対しても、他者に対しても、強い感情を抱くことができない人間であるかのような…。タイトルの『静かな世界』の「静けさ」は、主人公の内面世界の静けさを表したたものではない。タイトルのそれは「数学的な世界の静けさ」を指したものだろう。にも関わらず、本書を通じて強く感じられるのは、主人公の内面の静けさだった。

これを読んだ友人は、とりたててドラマチックな展開があるわけではないので、最初は物足りなさを感じていたようだ。だが、次第に登場人物たちが自分の中で動き出し、自らの学生時代のことを懐かしく思い出したとの感想を持ったらしい。

しかし私は、その友人のように、本書を自分の側に引きつけて読むことができなかった。なぜというに、私の学生時代の内面は、決して主人公のように静謐なものではなかったからだ。もっと醜く、ドロドロとして、臭気芬々たるグロテスクなものだったからだ。学生時代の私の内面は性欲や自己顕示欲を中心とした、執着や嫉妬にまみれたものだった。対して、主人公はストイックに情熱を傾ける対象と、脇目も振らずそれに集中できる資質を持った人物だ。私の青春が、誰かを求め、その誰かを燃やし尽くしてしまうドス黒い炎だったとしたら、主人公のそれは、独り高温で燃え続ける青い炎のように思えた。

こういうふうに記してくると、私が本書を批判しているように思われるかもしれない。だが、決してそうではない。とてもおもしろく読むことができた。私も誰かにオススメしたいとさえ思えた。その理由は以下の2点にまとめることができると思う。

第一点は、本書が研究者としての在り方を描いている点だ。“大学”という組織のしがらみの中で、純粋に研究をするということの難しさ。自然科学者として在るべき姿勢、自然科学者の観ている世界の豊かさ等々について描かれてる。本書の帯に「この本を読むと・考えてもわからなかったことが突然わかるようになります。・探してもみつからなかったものがみつかるかもしれません。(中略)・年齢性別関係なくとにかくなにかが学びたくなります」と書かれているが、これは誇大広告ではない。確かに、何かを学ぶということの醍醐味の一端が、本書を通して、およそ研究には向かない怠惰な私にも感じられた。

二点目は、先述の通り、本書が外連味たっぷりなドラマ性を、一切、排除している点だ。一般的な人間の生活、つまり私たちの生の生活は、得てしてドラマのようにはドラマチックではない(←ヘンな文章w)。本書にも、もちろん創作なのだから、ある程度のエンタメ性は加味されているのだろうが、繰り返しになるが、全体を通じて特に大きな出来事があるわけではない。いたって平坦な物語が展開するに過ぎない。

このようなエンタメ性を排除した文章は、ちょっぴり物足りなさを感じさせるかもしれない。しかし、私たちの日常で、実際に起こっていることは、映画や小説のように何かの前フリであったり、後日、見事に回収されるものではない。あのときのあれはなんだったのだろう、と後々振り返ってみてもスッキリしないこともたくさんある。日常的な出来事は、その後に起こるドラマの布石や暗示ではない。

だから、取り立てて何も起こらない主人公の物語世界は、私たちの住む生の世界はそんなに離れてはいない、地続きの世界であるように感じられる。そこに「日常」というリアリティを共有する余地が生まれる。主人公と私とは、先述のごとく全く趣を異とする人間だが、にも関わらず、主人公の気持ちに共感できる。こういう人もいるんだなぁ、と思える。だから、主人公がいきなり喜嶋先生を尊敬していたとしても、確かに、本人に出会う前から、周囲に立派な先生だという評判を聞かされていたら、そういう評判の影響で、そうなることってあるよね、とも思える。それは、本書が私たちの世界と地続きの世界を描いているからだろうと思う。行間を私たちの持っているリアリティで埋めながら読めるのだ。それが本書の最大の魅力であると感じた。

現実を徹底的に描写することがリアリズムなのではない、ということを本書は教えてくれた。そんな意義深い読書体験に導いてくれた友人の彼女さんに感謝しています。

 

 

6冊目 ヨブ記

旧約聖書 ヨブ記』 関根正雄 訳、読了

 

2月上旬、姉が難病であることが判明した。そこに運命の理不尽さを感じた私は、同じく理不尽な神の試練に苦悩し続けたというヨブの物語のことを思い出し、この機に読みたいと思った。

 

読んでみての率直な感想は、今回の読書体験では、本書は私の心の要求には答えてくれなかった。神が与えたもうた理不尽な試練に対し、ヨブはどのように嘆き、苦悩し、受け入れるか、あるいは拒絶し、絶望するか。その姿がどのように描かれているか、を期待しながら読んだが、本書は、そのような現代的な心理描写はほとんどなかったからだ。内容の殆どは「私は正しい!」「いや、君は間違っている!」という議論に割かれている。

 

神を畏れ敬い、道徳的にも正しく生きてたにも関わらず、ヨブは神の試練により、家族、財産、健康をことごとく失う。それでもヨブは、

「われわれは神から幸いをも受けるのだから、災いをも受けるべきではないか」

といってその試練を受け入れようとする。

が、次のページになると突如として神を呪う言葉を吐く人物に豹変する。

さらに、 

彼ら(年の若いものたち)の父たちはかつてはわたしがいやしめて

わが群の犬どもと一緒にすらしなかったのに   〈()内、引用者補足〉

という他のひとを見下すような台詞もある。こういった箇所を読むたびに「?」となってしまう。善人で、道徳的にも正しい男のはずなのに、人を見下したりしてたの?と思ってしまう。

 

本書?が記されたのは、大昔のことである。現代的な倫理・道徳観で読むとちょっとわかりづらい点もあるのだろう。そのうえ、冒頭と終末以外は、詩文形式で記されていることも、私には消化不良の一因になったのだと思う。

さらに解説を読んで納得したのだが、本書?は全四二章から成るが、一〜二章と四二章七節(これらの部分だけは散文形式で記されている)の間に、詩文形式の部分が挟まった構造をしている。これは元来別の由来をもつ民間伝承が混ざったり、後の時代に加筆されたりした可能性が高いことを示唆しているという。なるほどそうした歴史背景によって、ヨブの人物描写や、物語の流れに一貫性がないように、私には思われたのだろう。

 

一冊の本の内容を(それが自分を納得させる程度のレベルだとしても)つかむためには、やはりその本が書かれた背景を知らなければならないのだな、と今回の読書体験を通じて、改めて強く感じさせられた。そして今の私は、本書をつかみとるためには、あまりにものを知らなさすぎたように思う。Podcastで配信されていた吉本隆明さんの「苦難を越える〜『ヨブ記』をめぐって」という講演も参考に聞いてから本書に臨んではみたが、やはり二千数百年以上の歴史を持つ本書は、生易しいものではなかった。

 

旧約聖書 ヨブ記 (岩波文庫 青 801-4)

旧約聖書 ヨブ記 (岩波文庫 青 801-4)

 

 

5冊目 この世界の片隅に

この世界の片隅に』(上)(中)(下) こうの史代著、読了

 

先週末、高熱を出し、療養している床の中で読んだ。

 

私は悪い意味でのニヒリストだ。人間なんてチッポケで、弱っぽしくて、愚かで、醜い生き物だ。世界は生きるに値するなんて思えない。 

でも、ときどき「作品」を通して、ニーチェが言ったような瞬間に出会うことがある。その瞬間を味わうことができるなら、どんなにみすぼらしい人生であっても、もう一度繰り返しても構わないと思えるような瞬間に。

「こんなにもチッポケで、弱っぽしくて、愚かで、醜い人間が、どうしてこんなにも美しいことを考えることができるのだろう、こんなにも美しいものを生み出すことができるのだろう」

そういう感動が得られたとき、少なくとも、その感動を得ている瞬間だけは、私は私自身を含めた世界というものを、何のわだかまりも、欺瞞もなく肯定できる。

「時間よ止まれ!汝は美しい!」と言いうる。

 

本書は久々にそういう瞬間を与えてくれた。 

左手で描いた(と思われる)左手で描いたような背景、冒頭と終末に現れる怪物で挟まれた物語の構造、登場人物たちの台詞の選び方などなど。物語の細部まで考え抜いて作品を作っていることが伝わってくる。あとがきに至るまで血が通っていることが伝わってくる。そういう創作意識をもって創作を続けてくれるひとが居てくれる。そのことが、病床のなかの私には、とてもありがたく、とても励みになった。

夕凪の街 桜の国』以来、著者の作品は読んだことがなかったが、にわかに他の作品も気になってきた。今後、大切に読ませていただきたいと思う。

 

生きとろうが 死んどろうが

もう会えん人が居って ものがあって

うちしか持っとらんそれの記憶がある

うちはその記憶の器として

この世界に在り続けるしかないんですよね

 

あんた…ようこの広島で生きとってくれんさったね

 

 

 

 

 

 

 

4冊目 龍馬史

『龍馬史』 磯田道史 著、読了。

 

昨年の下旬、米粒写経居島一平さんの動画にハマってから、にわかに歴史に興味を持つようになった。昨年末、歴史好きの友人にそのことを話したら本書をプレゼントしてくれた。

 

本書は坂本龍馬に焦点を絞り、彼の生涯を追うことで幕末史全体を俯瞰しようというもの。

幕末史が複雑でわかりにくい理由はいくつかありましょう。まず、登場する集団が多いということがあります。(中略)そのうえ、幕末史には概念用語が頻出します。(中略)

 そういうこともあって、私は、坂本龍馬の生涯をたどるうちに、自然と、幕末史の体系的知識が身に付くような簡潔な書物があれば、どんなによいだろう、と考えるようになりました。そこで本書のような歴史叙述を試みました。

 

私にはある人間観、というか人間を理解・整理するときに用いている2つの軸がある。

一つは「リアリスト〜ロマンチスト」という軸。

これは『ルパン三世 ルパンvs複製人間』の中でマモー京介が、「ルパンは夢を見ない!!」とのけぞるシーンをみてピ〜ンときた。

「ロマンチスト」は、遠足の前日、明日のことが楽しみで眠れず、遠足の当日、昨夜の想像のほうが楽しくてチョッピリがっかりするタイプ。

「リアリスト」はその逆で、遠足の当日に起こることの中から楽しみを見つけだそうとするタイプ。

 

もう一つは、「革命家〜公務員」という軸。

これは『地下室の手記』を読んでいてビビビッときた。

「革命家」は、現実を変えるために行動できる、あるいは変えられると信じているタイプ。

「公務員」は、現実に対して不満はあるが、せいぜい冷笑的に対するだけで、現実を変えようとはしない、あるいは変えられるとは思っていないタイプ。

 

この2つの軸の妥当性はともかく、本書を読みはじめて、すぐ、龍馬はこの2つの軸で作られる「リアリスト−革命家」の象限に入る人物だと思った。

 

龍馬は決して単純な平和論者ではなかったし、時代の大変革が起こる過程では、ある程度の犠牲がでるのはやむを得ないと考えるリアリストでもあったのです。

 

私が重要視するのは、龍馬が誰よりも早く海軍の重要性を理解し、しかも実際に海軍を創設して自ら船を動かして実践を戦った、ということなのです。海軍が重要だということに気がついた人は、ほかにもいました。しかし、それを後先考えずに実行に移したのが龍馬だったのです。

 

著者自身、このように記していることからも、私の人間観による龍馬の捉え方もあながち間違っちゃいないと思う。

 

本書を読んでのもう一つの大きな感想は、龍馬は武士ではなく「ビジネスマン」っぽい人だったんだ、ということだ。

 

私の場合は『お~い竜馬』の影響で、龍馬に対して、優しくて、思いやりがあり、小さいことにこだわらず、常識にとらわれず、飄々と大きな夢にむかって生きた英雄的な人物像を勝手に抱いていた。

でも、(これは本書の最も優れている点のひとつだと思うが)そういった創作の中の「リョウマ」ではなく、飽くまでも歴史的資料に基づいて、そこから立ち上がってくる「リョウマ」をつぶさに見てみると、彼は決して雲ひとつない大空のような人物だったわけではないようだ。

例えば、龍馬は薩摩や長州に武器を売っていた。それを武士社会の常識にとらわれぬ自由で合理的な精神を持った男だった、と好意的にみることもできるが、現象だけを取り上げれば、武器を売る「死の商人」だったという見方もできる。 

また、海援隊が運用していたいろは丸が紀州藩の船に衝突して沈没したときには、不相応な額の賠償金をふっかけた「ゆすり屋」的な側面もあったらしい。

 

ですから龍馬を単純に颯爽たる志士と考えるのは、必ずしも適切ではありません。彼の本質は合理主義者の「タフネゴシエーター」であり、相手によって表現や主張を変えて、とにかく自己の目的を貫徹するために、見事な交渉をつづけていくところに本領があるのです。

 

それって、まるで遣り手のビジネスマンじゃないか!

 

龍馬のことが好き過ぎる人からしたら、もしかしたら龍馬のこうした一面は嬉しくないのかもしれない。けれど、私はむしろ本書を読んで、龍馬だって「クールなふりをしていても夜更けには納豆を食う」ようなワレワレと同じ血の通った人間だったような気がして、嬉しくなった。

 

龍馬を龍馬たらしめた人物、時代、思想などについても知ることができる一冊だった。とてもいい読書体験をさせてくれた友人に感謝したい。

 

 

龍馬史 (文春文庫)

龍馬史 (文春文庫)

 

 

 

3冊目 哲学はやさしくできないか

『哲学はやさしくできないか』 三木清 著 読了

 

私が哲学科を出たという話をすると、「へぇ〜頭がいいんだね」というリアクションをするひとが多い。

 「哲学科を出る」ということと、「哲学を学ぶ」ということはぜんぜん違う。

だから、私に対するそのリアクションは的外れなのだが、確かに哲学は難しいと思う。

というか、あまりに難しかったために、私は「学ぶ」のをあきらめて「出る」だけになってしまった。

 

前回取り上げた『プラグマティズム入門』も私には難しかった。

入門書ですら難しいと感じる自分の愚かさを呪いながら、本書のことを思い出して読むことにした。

 

本書はタイトル通り、なぜ哲学は難しいのか、という問いに正面から答えようとしたものだ。

 

著者はまず、読者側の責任について述べている。

例えば高等数学の教科書を、何の基礎知識ももたないひとが読めば難しく感じるだろう。哲学も同じ。ある程度の基礎知識がなければ難しいのは当たり前。学問というものはおよそそういうものだ。なのに哲学だけをとりたてて難しい、難しいと非難するのは勘弁しておくれ、と。

 

でも哲学には他の学問とは違った難しさもありますね、と認めて、以降、哲学(者)側の責任について論を展開する。

まず、哲学が難しいのは、実は哲学者の中にもよくわかっていないひとがいるからだ、という。そもそもわかっていないのだから、まして、噛みくだいて説明することもできない。

むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、ゆかいなことを いっそうゆかいに

とは井上ひさし氏の名言だけれども、哲学を難しくしか語れないひとは、井上氏的には不合格なのかもしれない。

次に、人びとが哲学に求めるものは、他の学問に求めるものと少し違っている。そのことも哲学を難しいものにしている理由だという。

彼等が哲學において求めるのは人生觀とか世界觀とかいったもの、一般に思想である。 

哲学はそのような「思想」を語るために「理論」を駆使する。言いかえれば、哲学とは理論を使って思想を語る学問。

つまり、哲学には「思想的側面」と「理論的側面」がある。最近の哲学は理論的側面が重視される傾向にあるため、人びとが求める思想的側面はどうしても希薄になりがちである。そのような肩透かし感が難しさとして感じられるのではないか、という。

先ほど、哲学も学問だからある程度の基礎知識が必要ですよ、と述べていることを確認した。でも、仮に哲学の専門用語などを勉強しても、なお哲学には他の学問とはちがった難しさが存在するのかもしれません、という話が続く。この辺りの著者の主張をうまく理解できている自信はないけれど、それは哲学の持つ本質に関係する問題のようだ。

 哲学の一つの側面である「思想」はそもそも独創的なものである。だから、ある思想がテーマにしている問題意識もまた独特なものである。それを共有できなければ、何でそれが問題なのかすらよくわからないため難しく感じる。私はそんな風に理解した。

例えば私にとっての問題は「なぜ私は私なのか?」ということだった。でも「私」というものにとりたたて不思議さを感じないひとには、「私」をめぐる哲学的な議論はピンとこないかもしれない。

他の哲學を模倣したり翻譯したりすのでなく、他の哲學に從って或ひはそれを手引として自分自身で考へるといふことである。さういふ思索の根源性がなければ他の哲學がほんたうにわかることもできぬであらう。藝術に關して眞の享受は或る創作活動であると云はれるのと同樣である。 

 

思索の根源性からいへば、自分にとってほんとに根源的に理解し、思惟し、研究してゆくことのできる立場というふものが色々あり得るわけではなからう。或る人にとつて或る種類の哲學がコンヂニヤル(性に合つたもの) であり、他の人にとつては他の哲學がコンヂニヤルである。自分にとつてコンヂニヤルな、從って運命的とも性格的ともいうべき哲學をやることが、自分にとつては固より、他人にとつても有益なことである。

川島英五氏が「時代おくれ」で歌うように、似合わぬことは無理をせず、あえて難しい哲学書を読むのではなく、自分に興味のある問題をテーマに据えれば、哲学もそんなに難しいものじゃないのかもしれないよ、と私は読んだ。

他にも哲学が難しい理由がいくつか挙げられているが、最後に、広く一般の人びとに哲学をわかりやすく伝えようとする努力もちょっと足りないのかもしれまんせね、というようなことを述べて、論を終わっている。

しかし、ただわかりやすくすればいいってものじゃないんだよ、と最後にお灸を据えている点は見逃せない。

固より、啓蒙的といふことと俗流化といふこととは嚴密に區別されねばならぬ。俗流化されることによって哲學はほんとにわかるやうになるのでなく、唯わかったやうな氣がさせられるだけであり、實は何もわかることにならないのである。俗流化は哲學を失ふ、哲學をなくすることは哲學をわかるやうにすることではなからう。哲學をわかり易くするという口實のもとに、俗流化によつて、哲學そのものが抹殺されたり、哲學的精神が失はれたりすることがありはしないかを警戒せねばならぬ。

 

冒頭で述べたように、私はただ哲学科に在籍していただけの自堕落な学生だった。でも、哲学が「あたりまえ」を疑う学問であること、つまり、自分の足場を一度崩すことで、(自分を含めて)世界を新鮮な眼で見つめ直そうとする知的営みである、ということくらいはわかった。だから哲学をはじめると、間もなくちょっとした危機的状況に陥ることになる。自分の寄って立つべき地面を一時的に失うのだから当然だ。

そういう哲学の危険性に触れず、「哲学は人生の役に立ちますよ」とか「哲学をすると迷いがなくなりますよ」とか、「哲学の効用」ばかりを謳った書籍が平積みになっているのを見かけると、何か嫌な気分になっていたのだが、それは、「哲學をわかり易くするという口實のもとに、俗流化によつて、哲學そのものが抹殺され」ているのを目の当たりにしていたからなのかもしれない、と本書を読みながら思った。