何冊よめるかな?

本棚の肥やしと化した本たちを供養するため始めたブログ

2冊目 プラグマティズム入門

プラグマティズム入門』 伊藤邦武著、読了

 

師匠からの紹介で、いわゆるひとつの課題図書として読んだ。

 

プラグマティズム」という用語は、もともと哲学畑で使われ始めた。

でも、現在は様々な分野で使われるようになり、

つまり、非常に広い意味を獲得した言葉・概念となった。

本書はそんな「プラグマティズム」を、

生まれ故郷の哲学畑に絞って解説しようというもの。

 

プラグマティズムは2010年代現在、約100年の歴史を持っている。

本書は、その100年を、「古典的プラグマティズム」「ネオ・プラグマティズム」「今日のプラグマティズム」の3つに区切ってまとめくれている。

「古典」の代表としてパース、ジェイムズ、デューイ。

「ネオ」の代表としてクワイン、ローティ、パトナム。

「今日」の代表としてブランダム、マクベス、ティエルスラン、ハーク、ミサック、マクダウェル、プライス。

以上の13名が取り上げられている。

 この「13」という数字は、最後の晩餐に出席したキリスト+12人の使徒にかかっており、

プラグマティズム」にとっての救世主や裏切り者が含まれていることを示唆している、

のだそうだが、私には本書のそういった仕掛けを紐解くほどの余裕はなかった。

 

13名という多くの哲学者の考えに加え、

プラグマティズムに関連する周辺の哲学思想、

例えば論理実証主義などの解説も含まれた非常に内容の濃い一冊であり、

私のような哲学素人はすぐに食傷してしまったからだ。

 

アマゾンレビューには「わかりやすい」などの評価も多く見られたが、

少なくとも私には、寝る前にチョロっと読んで3日で読了というような生易しい本ではなかった。

 

今回の読書体験で私がわずかに掴み得たのは、

プラグマティズムが、古代ギリシアから続く伝統的なヨーロッパ哲学に異を唱えた、新大陸の若者たちによるパンク精神から生まれた哲学思想だったということだ。

 

ポスト池上彰の現在、「入門書」といえば、

何の予備知識も持たないひとを対象に書かれたものであるかのように錯覚していたが、

本書は「哲学入門」ではなく、あくまで「プラグマティズム入門」なのだ。

著者あるいは編集者は、哲学のイロハは身につけていて、その上でプラグマティズムってものの概要を知ろうとしているひとを読者として設定しているように思われた。

 

「哲学は人生の問題解決に役立つ」、「哲学はあなたを楽にしてくれる」的な哲学の効用を謳ったエセ哲学の本が平積みされているのを見かける機会が多くなったこの頃、

ちょっと難しいくらいの硬派な本書は、むしろ好感が持てるものだった。

 

また間を開けず挑戦したいと思う。

その時は、「科学と芸術は等しく価値がある」という主張を理解することをテーマに読みたいと思う。

 

プラグマティズム入門 (ちくま新書)

プラグマティズム入門 (ちくま新書)

 

 

1冊目 『コンビニ人間』

『コンビニ人間』 村田沙耶香著、読了

 

年始にBSジャパンで放送された、

「文筆系トークバラエティ ご本、出しときますね?」

のSP番組に著者が出演していた。

 

その時の彼女のチャーミングさ、面白さに胸を打たれて本書を読もうと思った。

また、友人がブログで本書を取り上げていたこともインセンティブになった。

 

主人公、古倉恵子は36歳の女性。

ちょっと普通じゃない彼女は、

これまでに恋愛も結婚も就職もせず、

コンビニのアルバイトだけが社会との接点。

 

読み始めてすぐの頃は、

この主人公はブッダの悟りの境地に近いのかな?

という感想を抱いた。

 

以前、『仏教思想のゼロポイント』 魚川祐司著 を読んだことがある。

これまでにさまざまな「偉い人」たちによって加筆修正されたものではなく、

ブッダ本人による「悟り」のオリジナルな姿とはどのようなものだったのか。

それに迫ろうという主旨の名著だった。

 

そして、私の拙い理解によれば、

ブッダの悟りとは「あらゆる現象を徹底的に物理現象とみなすこと」のようだ。

 

感覚、感情、意志、理性といった心的現象も含めて、

この世界で起こる現象はすべて物理現象に過ぎない。

例えば、「リンゴが樹から落ちる」という現象に、

善いとか悪いとか、正しいとか間違っているとか、尊いとか賤しいとか、価値があるとかないといった属性はない。

ただ、物理的に「リンゴが樹から落ちる」という現象があるだけ。

 

それと同じように、例えば「人を愛する」ことにも、

善悪、正誤、貴賤、価値といったものはない。

 ただ物理的な現象として「人を愛する」だけ。

 

本書の冒頭を読んでいると、主人公もそういう世界観に生きているように思えた。

 

例えば幼稚園のころ、公園で小鳥が死んでいたことがある。どこかで飼われていたと思われる、青いきれいな小鳥だった。ぐにゃりと首を曲げて目を閉じている小鳥を囲んで、他の子供たちは泣いていた。

(中略)

私の頭を撫でて優しく言った母に、私は、「これ、食べよう」と言った。

(中略)

「小鳥さんはね、お墓をつくって埋めてあげよう。ほら、皆も泣いているよ。お友達が死んじゃって寂しいね。ね、かわいそうでしょう?」

「なんで?せっかく死んでるのに」私の疑問に、母は絶句した。

私は、父とまだ小さい妹が、喜んで小鳥を食べているところしか想像できなかった。(中略)何で食べないで埋めてしまうのか、私にはわからなかった。

 

家族は私を大切に、愛してくれていて、だからこそ、いつも私のことを心配していた。

「どうすれば『治る』のかしらね」

 母と父が相談しているのを聞き、自分は何かを修正しなければならないのだなあ、と思ったのを覚えている。

 

「なんか恵子変わったね」

(中略)

それはそうだと私は思った。だって私の摂取する「世界」は入れ替わっているのだから。前に友達と会ったとき身体の中にあった水が、今はもうほとんどなくなっていて、違う水に入れ替わっているように、私を形成するものが変化している。

(中略)

身に付けている洋服も、発する言葉のリズムも変わってしまった私が笑っている。友達は、誰と話しているのだろう。それでも「懐かしい」という言葉を連発しながら、ユカリは私に笑いかけ続ける。

 

このように主人公の視点は、生死に対しても、他者に対しても、自分に対しても、一定の距離を保っている。

それはあたかも、「リンゴが樹から落ちる」のを眺めているかのようだ。

 

透明な「私」という筒の中を通過していく「世界」を眺めているだけの「眼」のような存在。

そこには価値判断の装置である「脳」が搭載されていない。

主人公のそんな視角が、一瞬、私にブッダの悟りを連想させた。

 

さらに読み進めて、

副主人公たる白羽という35歳の男に同棲を持ちかける件まで来ると、

今度はカントが想定した理性的な人間ってこんな感じなのかな?

と思うようになった。

 

36歳になって結婚も就職もしない主人公は、

周囲から異様な存在として認識され始めている。

白羽もまた、(別の意味で)世の中から異物として見做されている。

 

「普通」の人たちのなかで、生きづらさを抱えている二人が、ひょんなことからファミレスで話をすることになる。

 

ここでの主人公は、

生きづらさの原因を「世の中」の所為にして、独善的な理屈で糾弾する白羽に対し、

飽くまで冷静で論理的だ。 

「え、自分の人生に干渉してくる人たちを嫌っているのに、わざわざ、その人たちに文句を言われないために生き方を選択するんですか?」

 それは結局、世界を全面的に受容することなのでは、と不思議に思った(後略)

 

さっきまで文句をつけられて腹をたてていたのに、自分を苦しめているのと同じ価値観の理屈で私に文句を垂れ流す白羽さんは支離滅裂だと思ったが、自分の人生を強姦されていると思っている人は、他人の人生を同じように攻撃すると、少しは気が晴れるのかもしれなかった。

 

「白羽さんの言うとおり、世界は縄文時代なのかもしれないですね。ムラに必要のない人間は迫害され、敬遠される。つまりコンビニと同じ構造なんですね。(中略)コンビニに居続けるには『店員』になるしかないですよね。それは簡単なことです、制服を着てマニュアル通りに振る舞うこと。(中略)つまり、皆の中にある『普通の人間』という架空の生き物を演じるんです。あのコンビニエンスストアで、全員が『店員』という架空の生き物を演じているのと同じですよ」

 

あの、悪いんですけど、もう夜なんで、寝てもいいですか?(中略)明日も朝からコンビニなんです。時給の中には健康な状態で店に向かうという自己管理に対するお金も含まれてるって、16年前、2人目の店長に習いました。寝不足で店に行くわけにはいかないんですが」

 

 

ここでの主人公の論理的な思考も去ることながら、

「健康な状態で店に向かうという自己管理」のために寝る、

という自分で設定したルールに従おうとするこの行動様式は、

カントの考える道徳観や自由に似ているように思えた。

 

例えば「人のものは盗まない」というルールを自分で設定したとする。

その後、例え餓え死にしそうになっても、

他人の畑のものを盗んで食べずにいるとき、その人は自由だ。

カントはそう考えた。

 

こんな時、動物なら空腹に耐えられず、盗んで食べてしまうだろう。

しかし人間には理性がある。

例え自分の首を絞めることになっても、

自分で決めたルールに従うことができる。

そんな時、人間は本能的な欲求や社会的な規則の奴隷ではなく、自由なのだ。

 

ここまで、(飽くまで私の理解するところの)ブッダだとかカントだとか、

いささか大仰な感想を抱きながら読み進めてきたが、

終盤に至って、主人公はそういう「リッパなひと」でないことがわかる。

 

コンビニを辞職させられた主人公は、一気に生活不全に陥ってしまう。

 生きる意味を失ってしまう。

 

(コンビニの店員として働き始めた)そのとき、私は、初めて、世界の部品になることができたのだった。私は、今、自分が生まれたのだと思った。世界の正常な部品としての私が、この日、確かに誕生したのだった。

※()内引用者補足

 

「店員」になる前の主人公は、ナニモノでもなかった。

だから世界に対して、とくに意味を見出す必要はなかった。

「脳」は持たず、透明な「眼」でいればよかった。

 

でも、「店員」という部品として誕生した彼女は、

歯車として世界と接続したものになった。

そして、それは「店員」という「私」の誕生でもある。

 

「店員」としての彼女はもはや、世界から独立しては存在できない。

そして、この世界に「店員」として生きることの意味を探し始める。

「脳」を搭載した生き物になる。

 

だから「店員」でない自分は、世界から切断された存在となる。

生きる意味が見いだせない。

私はふと、さっき出てきたコンビニの窓に映る自分の姿を眺めた。この手も足も、コンビニのために存在していると思うと、ガラスの中の自分が、初めて、意味のある生き物に思えた。

 

一度搭載された「脳」は、もはや「眼」だけであることを許さない。

「気が付いたんです。私は人間である以上にコンビニ店員なんです。人間としていびつでも、たとえ食べていけなくてのたれ死んでも、そのことから逃れられないんです。私の細胞全部が、コンビニのために存在しているんです」

 

そして、「脳」が探し出した結論が、

例え「普通の人間」たちの社会に馴染まないものであってとしても、

それは「こちら側」に属するものだ。

それは「脳」を持つ存在が導き出した結論だ。

 

「普通の人間」と「コンビニ人間」は、どんなにかけ離れているように見えても、

「こちら側」に棲息しているという点では同じだ。

 

「コンビニ人間」も世界にはめ込まれたちっぽけな存在、

つまり凡夫なのだから。

 

その意味で、主人公は「治って」いる。

「悟り」を得た覚者ではなく、

阿弥陀仏による救済を受ける側にいる存在だという意味で。

 

コンビニ人間

コンビニ人間

 

 

読みながら『ケンガイ』というマンガを思い出した。

このマンガを読んでいなかったら、あるいは読む順番が逆だったら、

『コンビニ人間』は心の中で★5の評価を得ただろう。

それくらい面白い一冊だった。

でも『ケンガイ』に敬意を評するために、

泣く泣く本書は★4にとどめておかなければなるまい。

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

 

 

ケンガイ(1) (ビッグコミックス)

ケンガイ(1) (ビッグコミックス)

 

 

新年の抱負

読書記録を兼ねて、約一年ぶりにブログを更新しよう

そう宣言したにも関わらず、また放り投げていた。

 

このブログの存在を唯一知る友人がいる。

昨年末、その友人と久々に会う機会があった。

 

彼はこのブログの存在を憶えてくれており、

私の更新を時々チェックしてくれていたことが判明した。

 

彼のその気持が嬉しすぎて、今年こそはちゃんと記していこうと、

気持ちを新たにした次第である。

0冊目 子どもを本嫌いにしない本

このブログを始めたとき、そのことを伝えた友人はわずかに一人。

その友人も、一年以上更新せずにいたこのブログの存在など、もはや憶えてはいないだろう。

 

別の友人に、「最近モヤモヤするのだ」と言ったら、

「君は入力するばかりで、出力しないからいけない」と返答された。

「何か書くことで発散してみてはどうか」とも。

 

それでこのブログの存在を思い出した。

今度こそは地道に更新していきたいものだ。

 

地道に更新するためには、なるべく面倒でないほうがいい。

面倒を少なくするためには、書き方についての形式を、

ある程度決めておくといいかも知れない。

 

そこで、当ブログの1冊目はこれにした。 

子どもを本嫌いにしない本

子どもを本嫌いにしない本

 

 

当ブログの書き方の形式を決めるに当たり、なぜ本書が相応しいのか。

それは、本書には読書感想文の書き方が記されているからだ。

子どもを“本嫌いにする”もののひとつが、読書感想文ではないでしょうか。

なぜ嫌いになるのかというと、うまく書けないからです。

うまくできないことは嫌になるものです。

(中略)

でも、“書き方”を知っていれば

読書感想文はそんなに難しいものじゃありません。

 

確かに、いい本に巡り合って、その感想をブログに書きたいなぁと思っても、

どう書いたらいいのか分からず、悶々としているうちに

書くのが億劫になってしまうことって今まで何度もあった。

その億劫を乗り越えるための“形式”を、本書は与えてくれる。

 

まず、原稿用紙を3行ごとに、かこんでおきます。

《以下、本書では、具体的な感想文の例を挙げて、そこに解説を加えるというスタイルが取られている。

そのままを引用することはできないので、3行ごとのブロックを数字で表し、

解説の部分だけを引用することとする》

① 題と名前を書き、1行空けます。

② 〜③ なぜその本を読んだのか、動機を書きます。

④ お話の最初のところのあらすじ、お話の設定を書きます。(時代や主人公についてなど)

⑤ 自分の感想を書きます。

以後、全体の2/3くらいまで、次の場面のあらすじ→自分の感想というパターンを何回かくりかえします。

⑥ 自分の体験、自分の暮らしについて書きます。(起承転結の「転」にあたります)

⑦ まとめを書きます。  (書き出しの部分とのつながりを考えるとよいでしょう。)

 

このスタイルで、今までよりは形の整ったものが一応できるはずです。

これで、“すばらしい感想文になる”というわけではありませんが

ここまでできればOKという場合もあるし、とりあえず形になると

たいてい今まで書けなくて傷ついていた本人自身に感動してもらえます。

 

なるほど。

しばらくはこの形式に則って、読んだ本の感想をこのブログで出力していこう。

 

あと、せっかくなのでここに取り上げる本についてのルールも、

いくつか決めておこう。

ルールは破られるためにあるものだけれど、ある程度のことを決めておくことで、

今後あれこれ悩むことが少しでも減ることを期待して。

 

一、最初から最後まで読んだ本のみ取り上げる

速読した本、部分的に読んだ、途中を読み飛ばした本、途中で読むのをやめた本は、「読んだ本」としてカウントしない

一、原則として、自分で購入した本のみ取り上げる

私は書き込みをしながら本を読むので、原則として、自分のお財布を痛めた本のみを取り上げることになるだろう。

一部、プレゼントでいただいた本や借りて読んだ本が含まれる。

一、読んだ本はすべて取り上げる

例え、難しすぎてよくわからなかったとしても、読んだ事実は事実として、読んだ本はすべて取り上げる。

誤読や読解力のなさも含めて、感想を書く。

一、1タイトルをもって1冊とする

例えば上下巻に別れているものは、上下巻を読み終えて、はじめて「読んだ」こととする。

シリーズ物で、各巻に一応の完結をみるものは、この限りではない。

一、マンガは含めない

マンガも含めて、読んだものをすべて取り上げていたら、とても書き遂せない。

面白いマンガについて取り上げることもあるが、それは読書数としてはカウントしない。

一、再読した本も取り上げる

同じ本でも、読むたびに受け取り方は変化するもの。

再読した本も、再読するたびに取り上げることにする。

一、本日以降読んだ本のみ取り上げる

どんなに名作であっても、昨日までに読んだ本の感想は取り上げない。

取り上げたければ再読して、フレッシュな感想をもってここに記す。

 

とりあえず、こんな感じかな。

いやはや、今度は長く続けられるかしら…