3冊目 哲学はやさしくできないか
『哲学はやさしくできないか』 三木清 著 読了
私が哲学科を出たという話をすると、「へぇ〜頭がいいんだね」というリアクションをするひとが多い。
「哲学科を出る」ということと、「哲学を学ぶ」ということはぜんぜん違う。
だから、私に対するそのリアクションは的外れなのだが、確かに哲学は難しいと思う。
というか、あまりに難しかったために、私は「学ぶ」のをあきらめて「出る」だけになってしまった。
前回取り上げた『プラグマティズム入門』も私には難しかった。
入門書ですら難しいと感じる自分の愚かさを呪いながら、本書のことを思い出して読むことにした。
本書はタイトル通り、なぜ哲学は難しいのか、という問いに正面から答えようとしたものだ。
著者はまず、読者側の責任について述べている。
例えば高等数学の教科書を、何の基礎知識ももたないひとが読めば難しく感じるだろう。哲学も同じ。ある程度の基礎知識がなければ難しいのは当たり前。学問というものはおよそそういうものだ。なのに哲学だけをとりたてて難しい、難しいと非難するのは勘弁しておくれ、と。
でも哲学には他の学問とは違った難しさもありますね、と認めて、以降、哲学(者)側の責任について論を展開する。
まず、哲学が難しいのは、実は哲学者の中にもよくわかっていないひとがいるからだ、という。そもそもわかっていないのだから、まして、噛みくだいて説明することもできない。
むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、ゆかいなことを いっそうゆかいに
とは井上ひさし氏の名言だけれども、哲学を難しくしか語れないひとは、井上氏的には不合格なのかもしれない。
次に、人びとが哲学に求めるものは、他の学問に求めるものと少し違っている。そのことも哲学を難しいものにしている理由だという。
彼等が哲學において求めるのは人生觀とか世界觀とかいったもの、一般に思想である。
哲学はそのような「思想」を語るために「理論」を駆使する。言いかえれば、哲学とは理論を使って思想を語る学問。
つまり、哲学には「思想的側面」と「理論的側面」がある。最近の哲学は理論的側面が重視される傾向にあるため、人びとが求める思想的側面はどうしても希薄になりがちである。そのような肩透かし感が難しさとして感じられるのではないか、という。
先ほど、哲学も学問だからある程度の基礎知識が必要ですよ、と述べていることを確認した。でも、仮に哲学の専門用語などを勉強しても、なお哲学には他の学問とはちがった難しさが存在するのかもしれません、という話が続く。この辺りの著者の主張をうまく理解できている自信はないけれど、それは哲学の持つ本質に関係する問題のようだ。
哲学の一つの側面である「思想」はそもそも独創的なものである。だから、ある思想がテーマにしている問題意識もまた独特なものである。それを共有できなければ、何でそれが問題なのかすらよくわからないため難しく感じる。私はそんな風に理解した。
例えば私にとっての問題は「なぜ私は私なのか?」ということだった。でも「私」というものにとりたたて不思議さを感じないひとには、「私」をめぐる哲学的な議論はピンとこないかもしれない。
他の哲學を模倣したり翻譯したりすのでなく、他の哲學に從って或ひはそれを手引として自分自身で考へるといふことである。さういふ思索の根源性がなければ他の哲學がほんたうにわかることもできぬであらう。藝術に關して眞の享受は或る創作活動であると云はれるのと同樣である。
思索の根源性からいへば、自分にとってほんとに根源的に理解し、思惟し、研究してゆくことのできる立場というふものが色々あり得るわけではなからう。或る人にとつて或る種類の哲學がコンヂニヤル(性に合つたもの) であり、他の人にとつては他の哲學がコンヂニヤルである。自分にとつてコンヂニヤルな、從って運命的とも性格的ともいうべき哲學をやることが、自分にとつては固より、他人にとつても有益なことである。
川島英五氏が「時代おくれ」で歌うように、似合わぬことは無理をせず、あえて難しい哲学書を読むのではなく、自分に興味のある問題をテーマに据えれば、哲学もそんなに難しいものじゃないのかもしれないよ、と私は読んだ。
他にも哲学が難しい理由がいくつか挙げられているが、最後に、広く一般の人びとに哲学をわかりやすく伝えようとする努力もちょっと足りないのかもしれまんせね、というようなことを述べて、論を終わっている。
しかし、ただわかりやすくすればいいってものじゃないんだよ、と最後にお灸を据えている点は見逃せない。
固より、啓蒙的といふことと俗流化といふこととは嚴密に區別されねばならぬ。俗流化されることによって哲學はほんとにわかるやうになるのでなく、唯わかったやうな氣がさせられるだけであり、實は何もわかることにならないのである。俗流化は哲學を失ふ、哲學をなくすることは哲學をわかるやうにすることではなからう。哲學をわかり易くするという口實のもとに、俗流化によつて、哲學そのものが抹殺されたり、哲學的精神が失はれたりすることがありはしないかを警戒せねばならぬ。
冒頭で述べたように、私はただ哲学科に在籍していただけの自堕落な学生だった。でも、哲学が「あたりまえ」を疑う学問であること、つまり、自分の足場を一度崩すことで、(自分を含めて)世界を新鮮な眼で見つめ直そうとする知的営みである、ということくらいはわかった。だから哲学をはじめると、間もなくちょっとした危機的状況に陥ることになる。自分の寄って立つべき地面を一時的に失うのだから当然だ。
そういう哲学の危険性に触れず、「哲学は人生の役に立ちますよ」とか「哲学をすると迷いがなくなりますよ」とか、「哲学の効用」ばかりを謳った書籍が平積みになっているのを見かけると、何か嫌な気分になっていたのだが、それは、「哲學をわかり易くするという口實のもとに、俗流化によつて、哲學そのものが抹殺され」ているのを目の当たりにしていたからなのかもしれない、と本書を読みながら思った。