何冊よめるかな?

本棚の肥やしと化した本たちを供養するため始めたブログ

27冊目 アップデートする仏教

『アップデートする仏教』 藤田一照 山下良道 共著、読了

 私は、特別な信仰は持っていない。けれど、宗教、中でも仏教には少なからず興味がある。特に原始仏教については、最新の宇宙物理学や脳科学に通じるところがあるようで、ことさら関心がある。そんなわけで、関心のおもむくままに、本書を手に取った。

  本書は、2人の曹洞宗の僧侶の対談を書籍化したものだ。その趣旨は、日本の伝統的な仏教を、タイトル通り、そろそろアップデートしませんか、という提案だ。

  著者らは、仏教には3つの異なるヴァージョンが存在すると言う。

  1つめは「仏教1.0」で、これは日本の伝統的な仏教を指す。すでに形骸化し、実質的な意味を失っているように見える、という特徴を持っている。

「仏教1.0」の状況を喩えて言うと、病で苦しむ人が山ほどいて、「病院」という看板のかかった場所もたくさんあって、そこには医者や看護師もいる。だけど、病人のほうは医学が自分の病気を治してくれるとは思っていないし、医者や看護師もそれを信じてはいない。でも病人は病院に出入りしている。そこで何をしているかといえば、庭で紫陽花の花を見たり、食堂でヴェジタリアンの食事をしたり、病室で宿泊したりしている。でも、医療行為だけは行われていない。こういう不思議な状況が日本の仏教の現状なんじゃないですかね。

 2つめは「仏教2.0」で、これは最近日本に定着しつつある、外来の仏教(著者らは主にテーラワーダ仏教を念頭に置いている)を指す。仏教を問題解決の方法として提示し、その具体的なメソッドを持つ、という特徴がある。先ほどの病院の喩えでいくと、「きちんと医療が行われている病院」ということになる。

 3つめは「仏教3.0」で、これこそ目指すべき仏教の姿を指す。しかし、これは著者らが新たに作り上げたものではなく、「実はブッダ道元がもともと説いていたことに他ならない」という。

「仏教1.0」は当然として、「仏教2.0」にも問題があり、これらは「仏教3.0」にアップデートされなければならない。なぜ、著者らがそう考えるに至ったのかを、自身らの歩んできた道程を語ることを通じて、伝えようとする一冊だ。

 後半は、ちょっと、駆け足気味に読んだため、「仏教2.0」の問題点が、いまいち把握できていないのだけれど、「仏教2.0」のメソッドでは、「シンキング・マインド」や「お猿さん」で例えられる「私」を脱却できない、というふうに読んだ。でも、著者(山下良道)は、「仏教2.0」の修行を通じて、「仏教3.0」に開眼したわけで、つまり、「仏教2.0」に根本的な問題があるというわけではないんじゃないの?全面的にアップデートしなくても、「仏教2.1」とかじゃダメなの?と混乱してしまった。

 でも、全体的にはとても興味深く、こういう仏教だったら実践してみたい(仏教は信仰するものではなく、実践するもののようだ)と思った。

アップデートする仏教 (幻冬舎新書)

アップデートする仏教 (幻冬舎新書)

26冊目 やさしい人物画

『やさしい人物画』 A.ルーミス 著、読了

 絵が描けるひと、楽器を演奏できるひとをうらやましいと思う。私もいつか、絵が描ける人間になれたらいいなと思う。絵画のモチーフにもいろいろあるだろうけど、私は、やはり「人間」を描いたものが好きだし、実際、自分でも描きたいと思う。本書は、人物画の入門書の中でも、名著と呼ばれている一冊らしい。そんなわけで本書を手に取った。

 絵を描いたり、楽器を演奏したり、およそ芸術的な営みって、個人の才能/センスによるところが大きい。そう思っていたし、実際、天才的なひとは存在する。でも、「芸術」の「術」は「技術」の「術」だ。テクニック。技。それは学べるはずだし、実際、知識として伝承されてきたはずだ。

 本書は、人物を描くに当たって、どんなところに注目すべきか、ということを丁寧に解説してくれている。こうすれば不自然じゃなくなるよ、という方法論もたくさんあって、さすが名著と呼ばれるだけのことはある、と思った。

 ただ、繰り返し強調されていたのは、基本的なことだったところが印象的だった。それはつまり、ただセンスがあれば、絵がうまくなれるわけではない、ってことなのかもしれない。

 常に基本に忠実であれ。それは、どんな分野にも言えること。王道。そういうことの重みが、身に沁みる年頃になってきたし、実際、もうオジサンといってもいい年齢なのである。

やさしい人物画

やさしい人物画

 

 

25冊目 アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(Kindle版) F・K・ディック 著 / 浅倉久志 訳、読了

 『ブレードランナー2049』を観に行くに当り、『ブレードランナー』(ファイナルカット版)を復習していたのだが、やはり私にとっては、少し難しい映画だった。ひとつのシーンに対する解釈が多様で、ボーッと観ていては、容易に置いて行かれていしまう。それはさながら哲学書を読んでいるときのようだ。

 そんなわけで、映画だけでは歯が立たないので、原作を読むことで、映画を補完してみようと思い、本書を手に取った。本当は『2049』を観に行く前に読み終えたかったが、映画館には行けるタイミングに行っておかなくては、ということで本書の読了の方が遅れてしまった。残念。

 本書を読んで、一番感じたのは、原作は、映画版とは大きく異なるということだった。例えば、映画版では主人公デッカードは、一人暮らしをしているが、原作では夫婦である。レイチェルの人物像も映画版とは大きく異なるし、ストーリーもかなり違っている。最大の違いは、「異世界環境下でも作業できる人型(ヒューマノイド)ロボット」のことを、「レプリカント」ではなく、「アンドロイド」と表記していることだろう。

 デッカードが、人間かアンドロイドか曖昧になる部分は、映画『フライトプラン』のように、デッカードが正しいのか、デッカード以外の人びとが正しいのか、読者にもわからなくなるサスペンスな展開で、読んでいてクラクラした。

 映画を観ているだけでは、人間以外の生物が、事実上滅んだ世界が舞台であることなどを、いまいち掴めていなかったが、そのように原作を読むことで補完できるところもあった。ただ、今回の読書では、やはり映画版との違いのほうが、際立って感じられた。

 例えば、見た目も、栄養価も、味も本物のリンゴと少しも変わらない、ただし科学技術によって作り出された、人造のリンゴがあったとしよう。それを「リンゴ」だと言っていいだろうか?少なくとも、「人造リンゴ」と銘打ってなければ、我々には気づけないくらい精巧なもので、食べても、リンゴを食べたのと、寸分たがわぬ生理学的影響を与えるものだとしたら…。リンゴとそれの違いはあるのだろうか?それがリンゴではなく、人間だったら?工場で生産されたそれは、人間と寸分たがわぬ姿かたちをし、能力的にも等しい。何もかも人間と違わない。ただ出自だけが異なる。それは人間と思っていいだろうか?その辺のところが、映画にも共通するテーマだと感じた。

 少しでもわかりにくいと視聴率が取れないため、わかりやすさを至上とする昨今、繰り返しの鑑賞に耐え、鑑賞する度に味わいが増す骨太な作品は、それだけでありがたい。もっともっとブレランを摂取して、より深いところまで潜れるようになりたいと思う。

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

 

ブレードランナー2049

ブレードランナー2049』 ドゥニ・ヴィルヌーヴ 監督を観た。

 私が年間、映画館に足を運ぶのは、ほんの数回程度でしかない。だが、本作は劇場で観ないわけにはいかんでしょう!! 

 とはいえ、私は「ブレラン上級者」というわけではない。前作はまだ4回しか観てないし、その何れもファイナルカット版だった。『ブレードランナー』の奥深い世界を味わうには、まだまだ長い道のりを要する「ブレラン初心者」である。

 どちらかと言うと、『GHOST IN THE SHELL』や『AKIRA』に親しみ、その先祖としての『ブレードランナー』に敬意を抱いているという方が、今回、劇場に足を運ぼうと思った正しい動機だろう。

 そんな初心者の私だから、的を射たものになるわけはないが、初めて観たフレッシュな感想を書き残しておこうと思う。

 私はネタバレを嫌う方ではない。ネタバレをされても、いい映画なら何度でも鑑賞に耐えられると思っているからだ。でも、『ブレードランナー2049』に関しては、珍しく何の事前情報も入れずにいた。どれくらい何も知らない状態だったかというと、映画館に入るとき、ロビーに貼ってあるポスターを観て、初めてR.ゴズリングが主演っぽいこと、H.フォードが出演するらしいことを知ったくらいだ。

 ブレランを一言でまとめるほど、罰当たりな所業はない。とは知りつつ、敢えて一言でいうと、前作は「人間だと思っていたのにレプリカントだったのかも知れない」というのが主題だったとすると、本作は「レプリカントだと思っていたのに人間だったのかも知れない」という、反転した主題を描いているのだと思った。その後、幾つかの『ブレラン2049』評を見聞きするにつけ、この解釈はあまり筋がよくないことがわかったが、とにかく、初めての映画体験では、そのような誤解をしていたことを、ここに記しておきたい。

 ただ、本作の主題はこれだけではない、というか、割りと早い段階で「レプリカントか人間か」という主題だけが、物語を駆動するエンジンではないことがわかった。ジョイ、ラブ、デッカードなど、主人公以外の登場人物にも、それぞれ主題があり、それぞれがエンジンとして物語を駆動する役割を持っている。つまり、これは主人公Kだけの物語ではなく、複数の登場人物を照らしだす物語だ。

 それ故、およそ3時間の超大作だが、弛んだところはなく、前作への敬意がふんだんに感じられた。本作の賛否は大きく分れていると聞くが、私は賛の側だった。前作も含め、ブレランを、繰り返しくりかえし観たいと思えたのだから。

 

24冊目 がん 生と死の謎に挑む

『がん 生と死の謎に挑む』 立花隆 NHKスペシャル取材班 著、読了

 今や日本人のふたりに一人が罹患するという病気、がん。母も2年前に患った。そんな身近な病気について知りたいと思い、本書を手に取った。

 読み終わったのは、約2ヶ月前。読み終えて、最も勉強になったのは、「がんは自分自身だ」ということだった。それまでは、がんに対して、細胞が不良化して、「病気として」患者の身体に存在する、という認識を持っていた。しかし、本書によれば、いかに不良化してもがんは飽くまで「自分として」患者の中にいる。ちょっと大づかみな理解だが、そう理解したほうが、がんという病気に対する認識は正しいものになると思った。

 がんが生じるメカニズムは、本当のところよくわかっていないのが現状だ。本書はそこから始まる。例えば正常な細胞が、がん細胞に変化するスイッチがあるとする。一つのボタンを押せばがん化する。それならわかりやすい。でも実際は、数万のスイッチがあり、どれか一つを押しただけではがん化しない。数万のスイッチの中から、特定のスイッチだけを選んで、順番通りに押さなければがん細胞は生まれない。それは複雑すぎて、今のところ、がん化するメカニズムの全貌は明らかにされていない。めちゃくちゃ複雑なメカニズムに基いているということが、ようやくわかってきた段階だという。

 メカニズムが判明したとして、がんを撲滅できるか。それも難しいという。がんが生じるメカニズムの一つに発がん遺伝子がある。(がんは遺伝子の病気であるというのが本書の一つのテーマでもある)発がん遺伝子は、これまでに何種類も特定されてはいる。だが、それは細胞をがん化するためだけの悪魔のような存在ではない。

がん遺伝子と呼ばれるものの多くが、生命体の初期発生過程や、細胞活動の最も基礎的な過程に不可欠の役割を果たしている。

 例えば、「 HIF-1」という遺伝子が取り上げられている。HIF-1は、発がん遺伝子のひとつだ。では、この遺伝子を持たなければ、がんは防げるかもしれない。そう考えるのは自然なことだと思う。そこで、実験的にHIF-1を持たないマウスを作ってみると、このマウスは胎児(胎マウス?)のうちに死んでしまい、生まれることができないらしい。HIF-1は低酸素状態になると発現する遺伝子であり、これは生物が進化する過程で、地球にときどき起きた、とんでもない低酸素状態を生き抜くために獲得したものだという。そのため、HIF-1の発現をきっかけに、その他の生命にとって重要な遺伝子が、次々と発現する。だから、HIF-1を持たないマウスは、生命としてのきっかけを与えられなかったマウスだということになる。そして、もちろん、ヒトもHIF-1を持っている。

 つまり、ヒトが生きるためには、発がん遺伝子が不可欠である。そして、発がん遺伝子を持つがゆえに、ヒトはがんになる。筋肉を鍛えれば、筋線維が肥大化するのと同じように、生きていれば、細胞ががん化する。それを阻止しようとするのは、とても難しい。 

生きることそれ自体ががん遺伝子のおかげという側面があるのだ。

 他にも、がんのイメージを一新させる知見がたくさん記されていた。(例えば、「がん」は、一種類のがん細胞の塊ではなく、複数のがん細胞から成るキメラであるetc)また、抗がん剤の是非や民間療法についても言及されており、この身近な病気について、冷静な観点から見つめ直す姿勢が随所に感じられた。科学的態度とはこういうことを言うのだろうな、と感心させられた一冊だった。

がん 生と死の謎に挑む (文春文庫)

がん 生と死の謎に挑む (文春文庫)

 

リリーのすべて

リリーのすべてトム・フーパー監督、観了。

 世界で初めて性別適合手術を受けた、リリー・エルベを描いた映画。学友の紹介で本作を観る運びとなった。

美しい映画だった。

 昔、長距離バスに乗っているとき、ふと「女と死体。男にとってより近しいのはどちらか?」という散文めいたものが降ってきたことがあった。この映画を観て、そんなエピソードを思い出した。併せて、独りでいるときよりも、二人でいるときの方が孤独が深まる時がある。それに似た逆説を思った。心が女性である男性は、身も心も男性である男性に比べて、死体よりも女性に近い存在に思える。しかし、女性に近い分、より自分が女性から遠い存在に感じられるのではないか。そんなリリーの心の内を想像した。

本作は、しかし、アイナー・ヴェイナー(リリー・エルベ)の物語である以上に、アイナーの妻、ゲルダ・ヴェイナーの物語であったと感じた。

 アイナーが男性と女性の役割を曖昧にする存在だとしたら、ゲルダは妻(家庭)と画家(社会)の役割を曖昧にする存在だと思えた。画家としてパッとしなかったゲルダは、リリーをモデルに描くことで、画家として成功を収める。しかし、リリーを招く度に、夫の中からアイナーが失われてゆく。

芸術家は、既成の価値観に揺さぶりをかける役割を担っていると思う。アイナーは鏡に写ったリリーの美しさによって、ゲルダは女装したアイナーを美しく描くことによって、「男と女」、「家庭と社会」という線引きに揺さぶりをかけた。「美」をエンジンとして既成の価値観を突き崩す。それは画家として、とても正しいことなのではないか。

さらに、ゲルダは、アイナーが失われてゆくことに戸惑いながらも、愛するアイナーのために、リリーを支える。その人を丸ごと受け入れること。その意味でも美しい映画だった。

 本作はまた、デンマークコペンハーゲンから始まるが、アイナーとゲルダが暮らす部屋の撮り方が、同じくデンマークの作家、V.ハンマースホイの絵のようで、絵的にも美しい映画だった。

リリーのすべて (吹替版)
 

  ちなみに私が観たのは吹き替え版である。Amazonビデオでは、吹き替えと字幕は別のタイトル扱いになる。私は、10年位前から、吹き替え派になったになったので、まずは吹替版から観ることにした。

 

23冊目 教団X

『教団X』 中村文則 著、読了。

 もう3年くらい前だろうか、ラジオの中で鈴木敏夫が本書のことを絶賛していた。それ以来、興味を持っていた。その後も、西加奈子又吉直樹若林正恭らが本書を賞賛しているのを知るにつけ、いつか文庫化したら読もうと思っていた。(だってハードカバーは高価だからねっ(ToT))そんな思いを口にしていたら、ありがたいことに友人がプレゼントしてくれた。(しかもハードカバー版の新品を!)

 本書を読み終えたのは3ヶ月以上前のことなので、感想もおぼろげになりつつあるが、思い出すことができる、当時の最もはっきりとした感想は、「感想を述べるのが難しい」というものだ。面白い・面白くないの単純な二択で迫られれば、私は間違いなく前者に丸をつけるだろう。でも、この本の感想が難しいのは、これは「小説なのか?」という疑問、というかシコリのようなものが残ったからだ。

 それで気になって鈴木敏夫のラジオを改めて聴き直してみたら、やはり私と同じような感想を持った人が少なからずいるらしかった。それに対して著者は(その回にはゲストとして著者が出演していた)、「技術的にはどんな風にも書けるが、あえて小説の枠をはみ出してもいいと思った」という主旨の発言をしていた。私はそういうパンクな精神を好む質ではある。しかし、たまたま同時期に読んでいた(完読していないのでここに感想は記せないが)、大江健三郎万延元年のフットボール』の、あまりにも文学然とした文体の方に、ゾクゾクするほどの快感を覚えたのは確かだ。「ああ!小説を読んでいる!」という充実感に満たされたのは確かだ。

一方、中村は、およそ小説らしからぬ文体を、本書では敢えて選んだということだが、それが成功だったのか、失敗だったのか、評価が別れるところだろう。私は、「何か新書っぽいな」と感じたのだが、それが「小説を超えた表現」への戸惑いだったのか「単なる新書の劣化版」への落胆だったのか、未だにわからない。

 ところで、本書は言ってみれば「宗教×脳科学×素粒子物理学(宇宙論)×自己論」をテーマとした小説だ。これらは、その一つひとつを取り上げてみても、眠れなくなるほどワクワクできる深遠なテーマに違いない。まして、それらをかけ合わせたら、私たちの世界観を根底から揺るがすような作品が出現するかもしれない。実際、「自意識×革命×宇宙論」という、本書と同じようなテーマを掲げた、埴谷雄高の『死靈』は、人間のみならず、現宇宙に存在するすべての存在形式の革命を目指した小説である。それでは、これらのテーマを扱うことで、本書は何を目指しただろうか。あとがきに著者の思いが綴られている。

 世界と人間を全体から捉えようとしながら、個々の人間の心理の奥の奥まで書こうとする小説。

 埴谷の『死靈』が「非現実」を舞台にすることで、現宇宙を超えた世界を志向したのに対し、本書は「現実の/現時点の世界」を舞台に、それを全体から捉えることを志向したもののようだ。その点、埴谷と同様のテーマを掲げつつも、本書の到達点は、私たちの世界観を根底から揺るがす地点ではなく、 現状を総括する地点に落ち着いたように思う。先述の通り、事前に得た情報が絶賛の嵐だったこともあり、私は勝手に、本書に世界観の革新を期待していたため、少し物足りなさを覚えたかもしれない。

  もう一つここに記しておきたいことは、私はこの本を一気に読むことはできなかった、ということだ。本書は500ページを超える大作なのだが、読んだ人の話を聞くと、時間を忘れて一気に読んでしまった、という人が少なからずいる。確かに、文章は読みやすいし、エンタメ性は高いし、グイグイ読めそうなのだが、私は、あまりの性的描写の多さに、少し辟易してしまった感がある。何もカマトトぶるわけではない。私は人並み以上にスケベな人間だと自負している。しかし、「人間を全体から捉えつつ、個々の内奥まで描く」ことを目指した本書において、人間性が吹き出す場面の多くが、性的行為を伴うことに、すこし食傷気味になった。んー、ヒトってそんなにエロスに偏ったアニマルだっけな?と思ってしまった。

 なんだか嫌ゴトばかりの感想になってしまった感があるが、先述の通り、間違いなく面白い小説だったと断言できる。でも、同時にモヤモヤも残る一冊だったということだ。

 脳科学素粒子物理学に、興味はあるけど難しそう、と食わず嫌いをしている人には、エンタメ・サイドの入門書として最適だろう。大昔に説かれた原始仏教と最先端の素粒子物理学の知見が、奇妙に一致する不思議な「この世」の扉を空けてくれる一冊だと思う。

教団X (集英社文庫)

教団X (集英社文庫)

 

22冊目 アーティスト症候群

『アーティスト症候群』 大野左紀子 著、読了

 「カエサルの休日」の中で、パーソナリティのお一人であるダニエルさんが、紹介されていたので手に取った。

 読み終えたのは3ヶ月以上前なので、はっきりとしたことは覚えていないが、なぜ「芸術家」ではなく「アーティスト」と名乗りたがる人が多いのだろう。「芸術家」には敷居の高さや重苦しさがあるのに、「アーティスト」って響きもオシャレだし、軽やかだ。でも、「アーティスト」を名乗る人たちって、実際どんな人たちなの?

 本書は「芸術家」ではなく「アーティスト」を名乗る人たちの自意識を、シニカルに批判する。「アーティスト」は自称であり、ほとんどが「ニセモノ」だと言わんばかりだ。特に芸能人で「アーティスト」を名乗る人びとに対しては、かなり厳しい語調で批判している。覚えている限りでは、松田聖子ジュディ・オング八代亜紀工藤静香石井竜也藤井フミヤ片岡鶴太郎ジミー大西などがその対象だ。彼らの作品を通じて、ほとんど人格攻撃とも受け取れるような批判もあった気がする。「絵なんか描かずに与えられた歌でも歌ってればいいんだよ!」くらいの勢いでディスっていたと記憶している。

 こうした忌憚のない厳しい批判に晒されるのが、もしかしたら本物のアーティストなのかもしれないが、それにしても、インターネットで得ただけの情報や著者の印象を基にした批判もあり、質の高い「批評」を読んでいる気持ちにはなれなかった。

 本書は「アーティスト」を自称しちゃうような人種の自意識を、ニヤニヤしながら味わうところに醍醐味があるのだろう。でも、私は著者の毒舌には、いまいち乗れないまま読み進めていた。しかし、私は、同じように辛辣で毒のある物言いをする立川談志が大好きでもある。そんなわけで、途中から、なぜ談志には乗れるのに、本書には乗れないのかを、考えながら読み進めることになった。

 談志の方が毒舌家として優れているとか、批評眼があるとか、そういう質的な問題ではないと思った。本書にも「なるほど!」と新しく学ばせてくれる部分は多分にある。

 談志は確かに、落語家仲間に対して、一見、口汚く罵っているとしか思えないような発言をすることがある。だが、談志と著者の一番の違いは、談志は同時に自分自身もプレイヤーであることだ。観客(読者)に対して、談志自身もまた丸裸で談志のような眼に晒される位置にいる。

  一方、著者は「アーティスト」を批判しているが、自分は批判されない位置にいる。著者が批判したような眼に、著者自身が晒されているわけではない。少なくとも私は著者のこれまでの活動を知らないため、どんな人物なのか知らない。どんなことを思って、このような言葉を綴ったのか知る由もない。つまり、本書のみをもって著者の人となりを思しかなく、その結果、ただ他者を揶揄するだけの嫌味なひと…それでは乗れるわけがない。

 実際、本書も後半になると著者自身もアーティストと名乗り活動していたプレイヤーであったことが語られる。どんなことに思い悩み、苦しんで作品を制作してきたのかが語られる。それを読んでいると前半の嫌な気分がかなり中和された。

 同じ言葉でも誰が言うかによってかなり印象が異なることがある。特に書籍は純粋にバーバルな媒体なので、誤解を与えやすいかも知れない。会話の中では大したことなくても、メールで書くと冷たい印象を与えてしまうのと同じだ。だから、著者の人となりが伺える後半を読んでから、前半を読めば私もニヤニヤと楽しめたかもしれない。

 そんなわけで、私にとっては、人間性のもつ影響力について考えさせられる一冊だった。

アーティスト症候群---アートと職人、クリエイターと芸能人 (河出文庫)