何冊よめるかな?

本棚の肥やしと化した本たちを供養するため始めたブログ

23冊目 教団X

『教団X』 中村文則 著、読了。

 もう3年くらい前だろうか、ラジオの中で鈴木敏夫が本書のことを絶賛していた。それ以来、興味を持っていた。その後も、西加奈子又吉直樹若林正恭らが本書を賞賛しているのを知るにつけ、いつか文庫化したら読もうと思っていた。(だってハードカバーは高価だからねっ(ToT))そんな思いを口にしていたら、ありがたいことに友人がプレゼントしてくれた。(しかもハードカバー版の新品を!)

 本書を読み終えたのは3ヶ月以上前のことなので、感想もおぼろげになりつつあるが、思い出すことができる、当時の最もはっきりとした感想は、「感想を述べるのが難しい」というものだ。面白い・面白くないの単純な二択で迫られれば、私は間違いなく前者に丸をつけるだろう。でも、この本の感想が難しいのは、これは「小説なのか?」という疑問、というかシコリのようなものが残ったからだ。

 それで気になって鈴木敏夫のラジオを改めて聴き直してみたら、やはり私と同じような感想を持った人が少なからずいるらしかった。それに対して著者は(その回にはゲストとして著者が出演していた)、「技術的にはどんな風にも書けるが、あえて小説の枠をはみ出してもいいと思った」という主旨の発言をしていた。私はそういうパンクな精神を好む質ではある。しかし、たまたま同時期に読んでいた(完読していないのでここに感想は記せないが)、大江健三郎万延元年のフットボール』の、あまりにも文学然とした文体の方に、ゾクゾクするほどの快感を覚えたのは確かだ。「ああ!小説を読んでいる!」という充実感に満たされたのは確かだ。

一方、中村は、およそ小説らしからぬ文体を、本書では敢えて選んだということだが、それが成功だったのか、失敗だったのか、評価が別れるところだろう。私は、「何か新書っぽいな」と感じたのだが、それが「小説を超えた表現」への戸惑いだったのか「単なる新書の劣化版」への落胆だったのか、未だにわからない。

 ところで、本書は言ってみれば「宗教×脳科学×素粒子物理学(宇宙論)×自己論」をテーマとした小説だ。これらは、その一つひとつを取り上げてみても、眠れなくなるほどワクワクできる深遠なテーマに違いない。まして、それらをかけ合わせたら、私たちの世界観を根底から揺るがすような作品が出現するかもしれない。実際、「自意識×革命×宇宙論」という、本書と同じようなテーマを掲げた、埴谷雄高の『死靈』は、人間のみならず、現宇宙に存在するすべての存在形式の革命を目指した小説である。それでは、これらのテーマを扱うことで、本書は何を目指しただろうか。あとがきに著者の思いが綴られている。

 世界と人間を全体から捉えようとしながら、個々の人間の心理の奥の奥まで書こうとする小説。

 埴谷の『死靈』が「非現実」を舞台にすることで、現宇宙を超えた世界を志向したのに対し、本書は「現実の/現時点の世界」を舞台に、それを全体から捉えることを志向したもののようだ。その点、埴谷と同様のテーマを掲げつつも、本書の到達点は、私たちの世界観を根底から揺るがす地点ではなく、 現状を総括する地点に落ち着いたように思う。先述の通り、事前に得た情報が絶賛の嵐だったこともあり、私は勝手に、本書に世界観の革新を期待していたため、少し物足りなさを覚えたかもしれない。

  もう一つここに記しておきたいことは、私はこの本を一気に読むことはできなかった、ということだ。本書は500ページを超える大作なのだが、読んだ人の話を聞くと、時間を忘れて一気に読んでしまった、という人が少なからずいる。確かに、文章は読みやすいし、エンタメ性は高いし、グイグイ読めそうなのだが、私は、あまりの性的描写の多さに、少し辟易してしまった感がある。何もカマトトぶるわけではない。私は人並み以上にスケベな人間だと自負している。しかし、「人間を全体から捉えつつ、個々の内奥まで描く」ことを目指した本書において、人間性が吹き出す場面の多くが、性的行為を伴うことに、すこし食傷気味になった。んー、ヒトってそんなにエロスに偏ったアニマルだっけな?と思ってしまった。

 なんだか嫌ゴトばかりの感想になってしまった感があるが、先述の通り、間違いなく面白い小説だったと断言できる。でも、同時にモヤモヤも残る一冊だったということだ。

 脳科学素粒子物理学に、興味はあるけど難しそう、と食わず嫌いをしている人には、エンタメ・サイドの入門書として最適だろう。大昔に説かれた原始仏教と最先端の素粒子物理学の知見が、奇妙に一致する不思議な「この世」の扉を空けてくれる一冊だと思う。

教団X (集英社文庫)

教団X (集英社文庫)