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何冊よめるかな?

本棚の肥やしと化した本たちを供養するため始めたブログ

8、9冊目 神々の山嶺

読んだ

神々の山嶺』(上)(下) 夢枕獏 著、読了。

 

ホンタナというpodcastで絶賛されていて、本書に興味を持った。

ホンタナ内で、著者のあとがきについて触れられていた。そのあとがきを引用してみる。

書き終わって、体内に残っているものは、もう、ない。

全部、書いた。

全部、吐き出した。

力およばずといったところも、ない。全てに力がおよんでいる。

(中略)

もう、山の話は、二度と書けないだろう。

これが、最初で最後だ。

それだけのものを書いてしまったのである。

これだけの山岳小説は、もう、おそらく出ないであろう。

それに、誰でも書けるというものではない。

どうだ、まいったか。

 

本書が、夢枕獏の、現在の等身大です。

力が足りなかったところ、力が及ばなかったところもありません。

このような想いをもって書きあげた本は他にありません。

(中略)

全て書きました。

残ったものはありません。

 

著者をして、ここまで言わしめるほどの小説とはどのようなものか。興味を持つなという方が酷だろう。

あらすじを簡単に説明するのは難しい。一つのカメラを巡って、山岳史に残る最大のミステリーを解くことが、物語を進める上でのひとつのエンジンになっている。だが、物語の本質はそこにはない。

山と生活は両立できない。仕事や家族、恋人を取れば、山は捨てるしかない。山を取れば、人並みの生活は失うことになる。山の持つ魅力に憑かれる者は多い。しかし彼らのほとんどは、生活を取る。取らざるを得ない。生きるということは生活するということだ。生活するということは、家族を持つということであり、仕事をするということである。バイトをして金を貯めて、死ぬかもしれない危険を侵して、家族や恋人を不幸にして、山に登ることにどれだけの意味があるだろうか。ある程度の年齢になれば、そんな疑問が頭をもたげてくる。そして、彼らのほとんどは生活を取る。趣味的に山に登れれば、それでいいじゃないか、と。

主人公、深町誠も山に取り憑かれた男である。かといって、山にすべてを賭けられるほどの覚悟は持てないでいる。生活と山、どちらも捨てられないでいる。山で味わった挫折は、山でしか克服できない。それはわかっている。でも、自分にはそれだけの才能はないことも知っている。中途半端なところで、ぶら下がっている。

そんな深町の前に、山にすべてを賭けた男が現れる。伝説の山屋、羽生丈二。羽生の純粋なまでの山に対する姿勢に、揺さぶられながら、自分と山、自分と生活を見つめ直すことになる。

一部の才能を持つものだけが、世界を切り拓いてゆく。そんな世界観を持っている人が多いかもしれない。では、多くの才能を持たざる者たちは、彼らの為す、前人未到の偉業を褒め称えるためだけのモブキャラなのだろうか。私たちのような凡夫は、生活するために生きるだけの人生に満足すべきなのだろうか。一方、世界を切り開く者は、誰もなし得ないことをする者は、満たされているのだろうか。人と違う生き方をすることは、生活を捨てて生きるということは何の不足もないことなのだろうか。

凡夫と天才。どちらも、それぞれに負うた十字架がある。凡夫と天才。本書は、そのどちらの想いも掬い上げて筆にのせている。それがすごい。特に、羽生と深町、それぞれの独白(手記)部分は、本書のハイライトだ。強く揺さぶられる。刻まれる。

何かをあきらめるということは簡単じゃない。何かをあきらめたフリをして、別の大切な何かのために生きようとしている。そうやって納得しようとしている。忘れようとしている。でも、本当はあきらめたはずの何かは、いつまでも心のどこかで、くすぶり続けている。それは、自分の心の中でのことだから、本当には騙すことはできない。

そんなくすぶりが思い当たる人の、それぞれにとっての「山」を、厳しく、切なく、甘く、美しく、残酷に肯定してくれる一冊だった。

おれは、羽生の役はできないかもしれないが、前の女のことも、ついくよくよ考えたり、がんばってしまったり、そういうことをそのまんま抱えたまま、おれは丸ごと、深町誠でいることしかできない

神々の山嶺(上) (集英社文庫)

神々の山嶺(上) (集英社文庫)

 

 

神々の山嶺(下) (集英社文庫)

神々の山嶺(下) (集英社文庫)