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本棚の肥やしと化した本たちを供養するため始めたブログ

2018-41 論壇の戦後史

奥武則 著『論壇の戦後史』読了

久しぶりに書店をウロウロしているときに平積みにされている本書を発見。私は最近、埴谷雄高に興味があるので、戦後史の流れの中で埴谷はどんな役割を果たしたのか知りたかった。本書の索引を見ると埴谷の名があったので、即購入。読んでみると、残念ながら戦後論壇における埴谷の位置については記述がなかったが、いずれにしても近現代史は大切だと思っているので、興味深く読めた。

まずは本書の「ウラスジ」(この言葉はタモリ倶楽部で知った!)を引用してみる。

戦後日本は「悔恨共同体」から始まった。終戦直後、清水幾太郎らが作った二十世紀研究所には林健太郎丸山眞男福田恆存など、その後、立場を異にする人たちが集まっていた。以後、彼らが活躍する舞台となる論壇誌は、いかなる問題を、どのように論じてきたのか。そして今、論壇というの言論空間は終焉したのか。「ポスト戦後」論壇の構造に光をあてた決定版。

次に、本書の内容が概括的に記されている部分を引用してみる。

 …一九四五年から五五年まで、小熊(英二)のいう「第一の戦後」の期間の前期、論壇は、敗戦後の「新しい日本」をどのような国として立ち上げるのか、つまりネーション・ビルディングをめぐって、活性化した。非武装中立の国家モデルを語る言説が大きな力を持った。そこでは、多かれ少なかれ、社会主義の明るい未来が共有されていた。 

 一九五一年にサンフランシスコ講和条約日米安保条約が結ばれて、「新しい日本」のかたちにひとまず、一つの結論が出た。しかし、それはいわば暫定的結論でもあった。日米安保条約の改定をめぐって大衆運動が盛り上がった「六〇年安保」を経て、暫定的結論は、その暫定性を取り払われる。

 大衆社会化が急速に進み、冷戦構造がそれなりに安定して続く中、日本は高度成長の時代をひた走る。「六〇年安保」前後から高度成長が終わりに近づいた一九七〇年ごろまでは、長い転形期だったといえるだろう。「戦後」から「ポスト戦後」へと日本がかたちを変えていくまでの転形期である。

 無理やり一言でまとめると、戦後の論壇を追うと、日本は戦後、理想主義から現実主義へと変化する流れにあったことがわかる、ということになるかと思う。戦後、ゼロから国の形を模索した時代、戦争という大きなショックから、「反戦!=世界平和」という強い理念が論壇を支配した。それは当然のことだろうと思う。しかし、世界平和は日本一国で実現するものではない。世界のなかの日本として、その立ち位置を考えていかなければならない。理念は、徐々にリアルポリティックスに移行してゆく。このダイナミズムの中で、ときに激論が生まれた。

それはまた、一部の知的エリートが上意下達に語る大きな理念から、私たち一般人の小さな現実の生活の声へと移行する歴史でもあった。大きな共同体から、小さな共同体への移行といってもいいかもしれない。それは現代に至って、ほとんど「個」にまで分散してしまった。個々の興味がバラバラに成ってしまったので、「みんな」の関心を集める議論の場は成立し難いように思われる。みんな好き勝手いっているだけで、「論壇」は成立しない。それは相手の言葉を受け止めようとしない、つまり言葉の価値が低下した時代とも言える。そんな現代における論壇のあるべき姿とは?という提言で終わっている。

ちなみに、「論壇」とは「国内外の政治や経済の動きなど、さまざまな領域の、広い意味での時事的なテーマについて、専門家が自己の見解を表明する場」と著者は定義している。そして、その具体的な「場」を提供していたのは総合雑誌だった。よって本書は戦後の総合雑誌を読み解くという方法論で記されたものだ。

文章も読みやすく、なにか特定の立場に偏ることなく記されていたため、いい意味で難しく考え込まずに読むことができた。東京五輪2020、大阪万博2025など、既視感のある現代日本の位置を考えるきっかけになりそうな一冊だった

増補 論壇の戦後史 (平凡社ライブラリー)

増補 論壇の戦後史 (平凡社ライブラリー)