何冊よめるかな?

本棚の肥やしと化した本たちを供養するため始めたブログ

2018-28 諸星大二郎の世界

コロナ・ブックス編集部 編『諸星大二郎の世界』読了

まえがきによれば、本書は「その圧倒的画業の変遷と、作家自身の深層を掘り下げることを目的として作成」された一冊である。諸星の作品群を「古代」「民族」「東洋」「南方」「西洋」「日常」という六分野に分け、それぞれに考古学者、民俗学者文化人類学者など各分野の専門家による諸星作品の評が掲載されている。

本書は150ページに満たない薄手の本で、ビジュアルブックとしての性質も担わされているため、内容的にそこまで「深層を掘り下げる」ことに成功している印象はない。ただ、これは私が本書を購入した理由でもあるが、諸星の書斎の本棚の一覧は興味深かった。

私は未だに、知人の家などに遊びに行くと、そのひとの本棚やCD棚?に眼が行ってしまう。インターネットがインフラになった現代においても、そのひとの脳髄を形成する養分の多くは、紙媒体の活字から吸収されていると、私は思う。思いたい。つまり、本棚を見ればある程度はその人となりが判断できると思う。思いたい。

本棚よりもスマホのアプリ一覧を見せてもらったほうが、その人となりを占う近道になる時代はもう迫っているのかもしれないが、人類という種のレベルで見れば、まだまだ知のアーカイブ量は、紙ベースのものが圧倒的に多いと思われるので、そのひとがどのような養分を吸収してきたか、あるいは吸収しようとしてきたかは、本棚に顕れると思うのだ。

果たして、諸星大二郎と私の本棚の内容は掠る程度しか一致をみなかった。ほんの十冊程度しか共通の本を持っていなかった。それほど違った脳髄を持った人物なのに、諸星の作品に私は強烈に惹かれる。それは本書で諸星評をしている識者たちに共通する見解でもあるが、おそらく「未分化性」に惹かれるからだと思う。

「私」と「あなた」「この世」と「あの世」「現在」と「過去」「現実」と「夢」それらには明確な境界があって、「私」は「この世」の「現在」を「現実」のものとして生きている。一応そういう共通了解のもとで、近代以降の文化は発展してきた。私たちはそういう基盤のうえに、一応安定的な生活をしている。だが、諸星作品を読むと、そういう生活の基盤が曖昧なものに感じられる。「私」と「あなた」「あの世」と「この世」…それらは実は明確な境界など持たず、未分化で渾然一体となった全体として在る。

がん細胞を「敵」として割り切れないように、私たちは割り切れない全体をこそ生活の基盤に据えなければ、いつか破綻せざるをえない。渾然一体たる全体の世界。それこそが諸星大二郎の世界なのではないか。そんなことに思いを馳せた読書体験であった。