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本棚の肥やしと化した本たちを供養するため始めたブログ

2018-25 埴谷雄高は最後にこう語った

松本健一 著(聞き手)『埴谷雄高は最後にこう語った』読了

 埴谷雄高の書くことは難しい。埴谷雄高の語ることはおもしろい。

 本書は埴谷雄高が鬼籍に入る、およそ二年前に行われたロングインタビューを書籍化したもの。難解な形而上小説『死靈』の理解の一助になれば、と思い手にとった。インタビューというか、ほとんど対談のような雰囲気すらある。(インタビュアーが長く話して、インタビューイーが一言しか話さないなんてこともままあるw)

 本書を読んで、今回もっとも強く感じたのは、埴谷雄高の思考の柔軟さだった。松本は、本書を次のような文章で書き始めている。

埴谷雄高は、歴史としての現在に生きることをやめ、みずからの思考実験のなかにのみ生きようとした。 

 「思考実験」(埴谷自身のことばを借りれば「妄想」)の効用だろうか、とても齢八十を超えた老人、死を間近に控えた老人とは思えないような、思考の柔らかさを感じた。

 これは本書の締めの部分からの引用になるが、「理想を持つだけでは駄目で、それを(一生)持続しなければならない」という埴谷に対し、インタビュアーが「戦後生まれの最近の若者は理想自体を持たないことが一種のファッションになっているらしいが、そういう時代は生きづらいか、それとも勝手にやってくれと思うか」と訊ねる。すると、

 いや、勝手にやってくれとは思わない。私達の社会生活には必ず波があって、どういう時代にも、いわゆるロマンティシズムとリアリズムの交代のように、理想主義と現実主義の流れの高低もまた絶えずあるわけで(中略)私達の精神はその両方ともを持っているんですね。

 ですから、今の時代がどうあっても、そういうことは全然気になりません。人類の歴史を見れば(中略)絶えず理想が破られて、次の生活密着の時代が続いてゆく。理想が破られた時代のほうが数倍も長いんです。

 (中略)

 すべての時代の標識は長いか、短いかだけで、やがては変わりますね。

 実生活を捨て、妄想の中に引っ込むことで、埴谷雄高は、物事を近視眼的に捉えず、永遠というスパンで捉える(少なくとも捉えようとする)視座を得たように思う。長く生きていると、人生の差異よりも反復の方に眼がいくようになる気がする。「これこれこういうときは、たいていこういうもんですよ」それを「知恵」と見ることもできるけれど、「先入見」とか「決めつけ」と目することもできる。永遠というのは終わりがない。終わりがないから最終的な結論というものがない。性急に答えを出さず、いつまでも傍らに置き、いつまでもああでもない、こうでもないと考え続けるちから。それが埴谷雄高の魅力のなのかも知れないと感じた。

埴谷雄高は最後にこう語った

埴谷雄高は最後にこう語った