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本棚の肥やしと化した本たちを供養するため始めたブログ

2018-24 生命に部分はない

A・キンブレル 著、福岡伸一 訳『生命に部分はない』読了

 訳者の前著『生物と無生物のあいだ』『世界は分けてもわからない』を読んだことがあり、いずれもとても面白かったので、本書も気になって手にとった。

 「動的平衡」に関する内容かと思って読み始めたが、そこに通じるものではあるものの、主たる内容は生命倫理に関するものだった。

 今回は長くなりそうなので、最初に断っておくと、私は本書をおすすめしない。理由は簡単で、本書は500ページを優に超える分厚い本だからだ。分厚い本は読むのが大変なので、おすすめはいたしません。でも、こういう本はたくさんの人に読まれるといいな、とも思う。

 本書の原題は「the human body shop」だ。「human body」と「body shop」の合成語だ。人体を各パーツに分けて、まるで自動車修理工場で扱われる機械部品のように見なす生命科学や現代医療を批判的に論じた一冊。

 本書で扱われる“部品”は、血液、各種臓器、精子卵子、子宮(代理母)、胎児、細胞、遺伝子だ。これら一つひとつに対して、具体的な事例(判例や科学者の発言など)がたくさん取り上げられている。

 本書はpart Ⅰ〜Ⅳから成り、全23章で構成されている。もし時間はないけど、ちょっと気になる、というのなら、自分に関心のある箇所(例えば「生殖医療」)とpart Ⅳだけを、とりあえず読んでみるだけでも、著者の意図はかなり理解できるはずだ。part Ⅰ〜Ⅲは、“各部品”についての事例が挙げられ、part Ⅳで、なぜ私たちの社会は人体を部品のように扱うようになってしまったのか考察されている。

 『ゴールデンカムイ』の第2巻で、アイヌの娘アシリパさんが「私たちは人間の力の及ばないものを“カムイ”と呼ぶ」みたいなセリフを言うシーンがあった。アニミズムというか、これは素朴な自然観・生命観だと思う。私もこのセリフに一脈通ずる生命観を持っていた。生殺与奪の権を持っているのは“カミサマ”だけという素朴な生命観を。

 この程、私の友人が、病児や障害のある方の支援をされている女性と婚約した。彼女に会ったとき、出生前診断についてどう思うか訊いたことがある。以前、出生前診断を扱ったNHKのドキュメンタリーを観た。その番組によると、ある医療施設では、胎児に深刻な遺伝子疾患があると診断された両親の、およそ8割が人工中絶を選択するというデータが紹介されていた。病気を持って授かった我が子をどうするか。とても苦しい選択を迫られたある母親の姿が印象に残っている。自分がもし当事者だったら、と考えずにはいられなかった。そして、先述の素朴で、ある種、理想主義的な私の生命観に照らせば、生殺与奪の権は私たち人間の側にないのだから、私は授かった生命は大切にしたいと思った。そのことを障害のある方たちと実際に接している彼女に訊いてみたかったのだ。

 果たして、彼女の答えは「中絶すると思う」とのことであった。現実を身に沁みて知っているからこその彼女の選択に、考えさせられるところがあった。理想主義的な自身の生命観に見直しを迫られたような気がした。

 本書は、生殺与奪の権をどこまで“カムイ”に属するものとするか、を問うている。

 例えば、「死」についてみてみることにすると、古典的な「死」の定義は心拍動停止、呼吸停止、瞳孔散大・対光反射の消失だ。この三徴を以て、医師は死を宣告してきた。しかし、1960年代の終わりに生命補助装置が登場して、人工的に呼吸・循環機能を維持することが可能になった。すると、脳のすべての機能が失われた場合でも、生きながらえることができるようになった。こうして「脈打つ死体」から、いつ生命補助装置を外すか、という問題が立ち上がることになった。さらに、ここに「臓器移植」が絡むと、新たな問題が立ち上がってくる。

臓器を求める者の眼には、この患者(「脈打つ死体」)はまたとない贈り物に映る。人工的な延命法が、臓器を取り出すために必要な時間を稼いでくれるのである。 *()内、引用者補足

 例え自発的な生命維持が不可能な状態にあるにせよ、生きた人間の臓器を取り出して移植するわけにはいかない。そこで、脳の機能に基づいた新たな死の定義、すなわち「脳死」が提案されることになった。ありていに言えば、ちょっと早めに死んだことにしよう、ということだ。

 他方、移植技術の向上により、人間の臓器に対する需要が、供給をはるかに上回るようになった。1997年時点で、51,000人以上のアメリカ人が臓器の提供を待っており、このリストには30分ごとに新しい名前が付け加えられているのだそうだ。そして、アメリカでは毎年200万人以上の方が亡くなっているが、そのうち臓器提供に適した状態での死者は、25,000人程度に留まるようだ。

 市場主義的な考え方からすれば、需要≫供給という状態は損失、ということになる。

 そこで、延髄や間脳を含む「全脳死」だけでなく、人格などの高次機能を司る脳の領域、すなわち大脳新皮質の機能を失った状態も「脳死」に含めてしまおう(「大脳新皮質死」)、という動きが目立ちはじめた。不可逆的に人格を失った状態は、事実上生命を失ったとみなしてもよいではないか、ということだ。「脳死」より、もっと早く死んだことにすれば、その分、臓器の供給源が増やせる、という意図が見え隠れする。

 ところで、この拡張された新しい死の基準に従えば、無脳症の赤ちゃんは法的に死んでいるとみなしてよいことになる。そこで、次のような事例が生じた。

 1992年3月、テレサと名付けられた赤ちゃんが生まれた。彼女の両親は、妊娠中からテレサちゃんが無脳症であることを知っていたが、中絶はしないと決めていた。テレサちゃんを生んで、その臓器を必要とする他の赤ちゃんに提供しようと考えていたからだ。しかし、出生後、テレサちゃんの自然死を待つと、その臓器は他の赤ちゃんへの移植には適さないものになる可能性があった。医師は彼女が生きている状態で臓器摘出することをよしとしなかった。そこで両親は、彼女には脳幹機能はあるものの誕生時点ですでに「死んでいた」とみなすよう裁判所に願い出た。しかし裁判所は、この申し出を棄却した。そうこうしているうちにテレサちゃんは亡くなり、臓器は移植に適さない状態になってしまった。

 この裁判に対し、裁判所が迅速に脳死裁定をしなかったためにテレサちゃんの臓器が使えなくなってしまった、と多くのひとが憤慨したという。その一方で例えどんなに短いものであれ、テレサちゃんが生きていたことは確かだとする意見もあったらしい。

 この話は無脳症だけに留まらない。大脳新皮質死を「人間の死」と認めれば、永久的植物状態(PVS)やアルツハイマー病の患者さんも、その範疇に含まれることになる。

 倫理学者デイビット・ラムの言葉が紹介されている。

いまだ息がある死体という考え方は、倫理的に受容しがたい。たとえば、それをどう葬ればよいのか。呼吸を続けているというのに埋葬したり火葬することができるだろうか。それとも誰かが最初に死体を「窒息」させろとでもいうのか。 

  さらに、「死」を定義することは「生」を定義することにつながる。大脳新皮質の機能がない状態を「死」とすると、中枢としての脳活動が始まる二二週齢以前の胎児は「生」を獲得していないことになる。そうして、本書は「胎児マーケット」という章に続いてゆく。

 partⅣでは、なぜ人間の身体が、まるで自動車の部品のように扱われるようになったのかが、歴史的に考察される。一言でいえば、17〜18Cに出現した啓蒙主義の時代に説かれた「機械論」と「自由市場主義」が、時代とともにエスカレートして、それまでの自然観、生命観を侵食・破壊してきたためだとされる。

 機械論の嚆矢として、有名なガリレオが取り上げられている。

自然界は、形而上学的な見方や精神論から解明できるものではなく、定量的な測定や厳密な数学的解析を通してのみ理解できるというのがガリレオの信念であった。

 以下はガリレオに対する、科学史家ルイス・マンフォードの言葉。

彼の本当の大罪は、教会の教条や規範を含めたさまざまな人間の経験の全体像を、観測可能で、物質と運動のことばで説明できる、ごく限られた部分に置き換えてしまったことにある。

  ガリレオからはじまり、デカルトやラ・メトリーらが機械論的世界観を育てていった。この世界は神が創り給うた精巧な時計のようなものである。被造物たる私たち人間も、どれほど複雑巧妙であるにせよ、各種の部品からなる時計じかけの人形のようなものだ。そのような自然観が醸成されていったという。

 もう一方の市場主義の源流にはアダム・スミスがいる。利潤追求行動と市場原理とが「神の見えざる手」となって機能し、すべての人びとに善をもたらすと説いた。

 スミスの放任主義は後続の学者たちに受け継がれ、「個々人の自然な経済的希求は、すぐに社会全体の福祉へ寄与する」と主張され、「個人が自らの利益を追求する過程で、需要と供給の「法則」がすべての商品に働いて、その価値と生産量を規定することになる」自由経済の市場が発達していった。

 市場は発達とともに、それまで商品として扱えなかったものまで商品化してゆく。経済学上、「商品」は売買を目的として生産された物品である、と定義されるようだ。しかし、個人の利潤の追求が公共の善になるアダム・スミス的世界の中では、需要と供給に任せるまま、本来は「商品」でないもの、すなわち土地(自然)や労働(時間)も「商品」としてみなされるようになっていった。

人生を時間単位の労働賃金と引き換えに切り売りすることは、生命そのものを取り引きすることや代理母契約で子宮を貸し出すことと紙一重である。自分の時間という、人間の最も貴重な 所有物を切り売りすることをよしとする思考と同じ思考パターンが、今度は人間の最も貴重な人体そのもの、血、臓器、精子卵子の切り売りをもよしとするのである。さらに、もし、機械や便利な装置の発明が特許化できるなら、どうして生きた「発明品」を特許化できないことがあろうか、となる。人間をはじめとする生物もまた工業化システムのなかで、売買したり契約の対象となりうるはずである、ということになる。労働を人間性から切り離して考えることができるなら、人体もそれと同じように切り離して考えられない理由はどこにもないはずだ、となっていく。

  出生前に遺伝的な疾患の有無をみつけ、生まれてくる生命を選別することの延長線上には、遺伝子を調べて「頭の良い子」や「運動のできる子」を選別する優生学的世界が待っている。出生前に病気の有無が判明する社会では、病児の出産・育児・教育などは「自己責任」の下で行われるべきだという不寛容な社会が生まれる可能性がある。

 思想はエスカレートする。ひとつの思想の「究極と根源」にまで考えを巡らせて、ここからさきは“カムイ”の領域、と線引きする「知恵」を、果たしてリンゴをかじった私たち人間は持つことができるだろうか。

 分厚くて読了は大変だったけど、いろいろと考えさせられる一冊だった。

生命に部分はない (講談社現代新書)

生命に部分はない (講談社現代新書)