何冊よめるかな?

本棚の肥やしと化した本たちを供養するため始めたブログ

2018-16 一休・骸骨

乃木 著『一休・骸骨』読了

 本書のことを知っている人は少ないと思われる。なぜというに著者はプロの作家ではないからだ。著者の本業は映像クリエイターで、ダニエルさんという画家の方と一緒に「カエサルの休日」というpodcast番組を主宰されている。

 私はこのpodcastの大ファンで第1回目から聴いている。番組内で著者は小説を趣味として執筆していることを明かしていたが、数ヶ月前、自著を電子書籍として無料で公開したことを番組内で公表。即購入。他に読むべき本があったため遅くなってしまったがついに読むことができた。

 本書は一休宗純地獄太夫を題材にした時代小説だ。著者が歴史についての造詣が深いことは番組のリスナーなら誰でも知っている。とはいえ本書はあくまで「素人が趣味で書いた小説」だ。正直、そこまで期待しないで読みはじめた。

 しかし、私のその心構えは間違っていたことが直ぐにわかった。単におもしろかったという感想では済まない。読後、「凄いものを読んだ」という興奮と、その興奮ゆえの半ば虚脱感のようなものに捕らわれたものだ。

 何がそこまで私に迫ったのか。

「凄い」と感じる作品は作品全体として迫ってくるのであって、どこか一部分を取り出して要素還元的に分析することはむずかしい。まして、それを言語化する力は私にはない。言語化した途端、私が感じた「凄さ」は失われてしまう気がする。でも、本書について敢えてその愚を犯すならば、それは「因果律の超克」という主題にあると思う。

 私の、ちょっと大げさに言えば人生のテーマとして「因果律の超克」というのがある。悪いことをすると地獄に堕ちる。善いことをすると天国に行ける。そんな素朴で、素朴であるだけに力強い道徳律。「情けは人のためならず」なんて言葉の重みを実感として持っている人も少なくないのではないか。因から果をみればこのようになるが、果から因をみると「今、あなたが不幸なのは、過去の行いが悪いからです」となる。

 思い出すと顔から火が出るくらい恥ずかしい過去の過ちのひとつやふたつ、誰にでもあるだろう。最近のアニメでタイムリープものが多いのは、それだけ過去を修正したいという願望を強く持っている人たちが多いから、という論評を耳にしたことがある。

 過去は変えられない。過去に縛られても意味はない。頭では理解しているが「因果律」の呪縛は手強い。過去は取り返しがつかないだけに、心の重荷になる。膨らみ続ける。前世の悪行まで背負うことになる。キリストが殺された責任まで背負うことになる。

 私は、こうした過去の呪縛を、素朴ゆえに根強い因果律を乗り越えたい。そんなもの背負わなくてもいいよ、と言いたい。

 本書の主人公は山賊だ。人身売買、盗み、人殺しなど、悪逆非道な生き方をしてきた。ある日、一休と出会う。その後、しばらくして山賊をやめて下山しようとする。しかし、その途中で自分が殺した村人の身内に捕縛され裁かれる。主人公は自分の罪を認め、遺族たちのために殺されてやろうと思う。だが、主人公が処刑される直前に再び一休が現れ彼の命を救う。一休は言う。

云うまでもない。おのれは多くの人間を不幸にした。なれど果たしてその報いはおのれを救うであろう。罰も報いも、即ちひとつの果というものは救いに他ならぬ。善果報に悪因果、縁起に恩讐、これみな理じゃ、筋道じゃ。おのれは然るもので許されてはならぬ。何となればおのれの悪には因も種もないからじゃ

 では、どうすればいいのか、という主人公に対し、さらに一休は言う。

何もなすな。悪はもとより善も為すな。何びとも助けるな。救うな。悉く見捨てよ。善人も悪人も、貴人も凡下も誰一人救うてはならん。善があればこそ悪もあらん。(一部引用者改変)

 そして、「二漏」という名を与えられ、主人公の善も悪も成さないという修行の旅が始まる。そして、その後、二漏は過去の大きな過ちと直面させられる。

 これだけ深いテーマを描いた物語をどのように締めくくるのか。著者は、くり返しになるが、あくまでもプロの小説家ではない。物語に没入しつつも、読み終えるまで、どこかで不安はあった。広げるには広げてみたが、風呂敷をたためず終える作品はザラにあるからだ。プロの作家でさえも。にもかかわらず、この物語は見事に着地した。「因果律の超克」への示唆をたくさん与えてくれたうえに物語としてもすばらしかった。

 これだけの筆力を持ったひとが在野にいることへの驚きも加わって、本書は他書では得がたい読書体験を与えてくれた。文句なく★5。オススメです!

一休・骸骨

一休・骸骨

 
 【追記】
 先日公開された、カエサルの休日「第66回聴く音楽と作る音楽と、忘れられない音楽と」の中で、乃木さんが「拙著のことを取り上げてくれたブログがあった」と言及されていた。プライバシーに配慮して、番組内でブログ名は明かしておられなかったが、「そんなブログはひとつしかない」とも仰っていたので、かなりの確率で当ブログのことを言及してくれたことになる。世界中でたったひとり、私の友人にしか存在を知られていないこのブログのことを、大ファンのポッドキャスターの方に取り上げてもらえるなんて、藤井聡太六段(2018.5現在)ではないが、こんな僥倖にめぐりあえるなんて、天にも昇る気分でございました。ありがたや、ありがたや。