何冊よめるかな?

本棚の肥やしと化した本たちを供養するため始めたブログ

11冊目 とめられなかった戦争

『とめられなかった戦争』 加藤陽子 著、読了

著者は歴史学者NHKの番組に出演されているのを何度か見て、その上品なお人柄に惚れてしまった、という少々情けない動機から本書を手に取った。もうちょっと崇高な動機としては、近現代史は、現在の私たちの社会を規定する歴史として、とても重要だと思われるので、それを知りたいというのがある。

本書は、NHKで放映された、「さかのぼり日本史 昭和 とめられなかった戦争」の内容に沿って書かれたもの。私は、この番組自体を観ていないので、書籍化に当たり、どこがどう修正されたのかはわからない。だが、おそらく本書の構成は、番組とそう変わらないことと思う。

本書は全4章から構成されている。著者はまず、戦争終結の可能性という観点から太平洋戦争を振り返ったとき、サイパン陥落こそがターニングポイントであったと主張する。そこで第1章では、サイパン陥落がどのような意味を持っていたのか、なぜサイパンが陥落した時点で戦争を終結することができなかったのか、という問をたてて論を展開する。続く第2章では、そもそもなぜ国力に圧倒的な差があるアメリカと戦争をすることになったのか、が述べられる。第3章では、日米開戦を招くきっかけになった、日中戦争の長期化が生じた理由が述べられる。最後の第4章では、日中戦争の原因となった満州について述べられる。このように本書は、番組のタイトルどおり、歴史を順々に逆上って見てゆくという構成になっている。

私はチョコレートが好きだ。チョコとカレーとビールがあれば、食に関するかぎり、ほとんど不満はない。チョコレートのあのほろ苦い感じが、私を幸福にしてくれる。だから、チョコレートからビター感を捨象した、ホワイトチョコレートの存在はちょっと受け入れがたい。しかし、世の中にはホワイトチョコ派が確かにいる。ビターなチョコ原理主義な私からすれば、大げさに言えば、ホワイトチョコ派は邪道だという気もする。たかがチョコレートの好みひとつとっても、このように意見が対立する。これが宗教観や国家観、政治信条のような事柄ともなれば、その対立は凄まじいものになるだろう。それらは、ヒトの世界観、人生観を大きく左右するからである。

歴史観というのも、ヒトの世界観を大きく左右するもののひとつだといえるだろう。ひとつの歴史的事実をどう解釈するかは難しい。客観的な歴史というものが成立するのかさえ疑わしい。だから、歴史観を巡って意見が激しく対立することも多いだろう。実際、著者の歴史観に対して、左寄り(自虐的)過ぎるという批判を目にしたこともある。私は歴史のド素人だし、先述の通り、著者のお上品な人となりに惹かれて本書を手に取っただけの軽薄な読者なので、ここに記されている内容が、「歴史の真実」にどれくらい近いのか、あるいは遠いのか判断する術は持たない。

ただ一ついえることは、本書が取り上げた時代は、私たちの世代からすれば、祖父母が生きた時代であり、ほんのちょっと昔のことなのにも関わらず、私は当時の出来事に対して、あまりにも無知だったということを突きつけられたということだ。

サイパン陥落が太平洋戦争終結の決定的なターニングポイントであったというのは著者の(もちろん膨大な研究に裏打ちされた)解釈であり、私にはその是非は判断できない。でも、サイパン陥落という出来事があったこと、それにより、米軍が日本本土を爆撃できる拠点を得たこと等々は、解釈を差し挟む以前の(歴史的資料に基づく)事実だろう。そうした事実に、もう少し関心を持つべきだと思った。なぜというに、やはり歴史というのは現在を規定する種または土壌だからだ。歴史の延長上に現在があり、現在の延長に未来がある。その意味で現在を生きる私たちが歴史に学ぶことは多い。ありふれた感想ではあるが、それだけに強く、今までの無知・無関心を反省させられることしきりな読書体験となった。

著者は、以下の言葉で本書を締め括っている。

近代史をはるか昔に起きた古代のことのように見る感性、すなわち、自国と外国、味方と敵といった、切れば血の出る関係としてではなく、あえて現在の自分とは遠い時代のような関係として見る感性、これは未来に生きるための指針を歴史から得ようと考える際には必須の知性であると考えています。

なるほど、私もチョコレートを、切れば血が出るくらいの勢いで好いていたのかもしれない。もう少し知性を発揮して、ホワイトチョコ派と友好関係を築けるくらいの、豊かな感性を養いたいものである。

とめられなかった戦争 (文春文庫)

とめられなかった戦争 (文春文庫)