何冊よめるかな?

本棚の肥やしと化した本たちを供養するため始めたブログ

7冊目 喜嶋先生の静かな世界

『喜嶋先生の静かな世界』 森博嗣 著、読了

 

友人の彼女さんがオススメしてくれた本。

著者の半自伝的な小説。研究者としての日常が描かれている。とりたてて大きな事件が起こるわけでもなく、淡々とした日々の物語が綴られてゆく。

日記とは、本来、誰かに読ませることを前提に記される文章ではないだろう。だからそれは、外連味たっぷりで、エンターテインメント性こってりな文章にはならないはずだ。本書を読んでいて、私は、誰かの日記を読んでいるような感覚に捕らわれた。 

私には、自分で「精神の処女膜」と名付けた性質がある。私にとって『カウボーイ・ビバップ』はオールタイム・ベストなアニメ作品だ。にも関わらず、大学当時、はじめて観たときにはピンとこなかった。2回目に観たときに、初めて、「これは名作だ!」と感じられた。つまり、私にとって、初回の体験は、精神の処女膜を破るはたらきしか持たず、2回目以降になって、初めて作品の持つ豊かさを享受できる。そういうことが、往々にしてある。

そんな精神の処女膜を持つ私のことだから、よく読めていないだけかもしれないが、今回、本書を初めて読んだ限りにおいては、主人公が、なぜ初めからそんなに喜嶋先生に魅かれたのかがよくわからなかった。主人公は、特に理由もなく、まるで恋のように、出会った瞬間から喜嶋先生を敬愛していたように思えた。少なくも、喜嶋先生との交流の中で、次第に心魅かれていったという印象は受けなかった。

先に、本書を読んでいて、誰かの日記を読んでいるような感じを持ったと記した。本書を、個人の内面を吐露した日記だとすれば、そこに示される主人公の内面は、常にいたって冷静だ。文章から読み取れる彼の内面は、静か過ぎるほど静かな印象をもって綴られている。

文字を読むのが苦手だった幼少時代や、さらに他者の感情を読む能力に乏しいことなどを加味すると、ある種の人格が欠落しているがゆえの静けさのようにも思われた。自分に対しても、他者に対しても、強い感情を抱くことができない人間であるかのような…。タイトルの『静かな世界』の「静けさ」は、主人公の内面世界の静けさを表したたものではない。タイトルのそれは「数学的な世界の静けさ」を指したものだろう。にも関わらず、本書を通じて強く感じられるのは、主人公の内面の静けさだった。

これを読んだ友人は、とりたててドラマチックな展開があるわけではないので、最初は物足りなさを感じていたようだ。だが、次第に登場人物たちが自分の中で動き出し、自らの学生時代のことを懐かしく思い出したとの感想を持ったらしい。

しかし私は、その友人のように、本書を自分の側に引きつけて読むことができなかった。なぜというに、私の学生時代の内面は、決して主人公のように静謐なものではなかったからだ。もっと醜く、ドロドロとして、臭気芬々たるグロテスクなものだったからだ。学生時代の私の内面は性欲や自己顕示欲を中心とした、執着や嫉妬にまみれたものだった。対して、主人公はストイックに情熱を傾ける対象と、脇目も振らずそれに集中できる資質を持った人物だ。私の青春が、誰かを求め、その誰かを燃やし尽くしてしまうドス黒い炎だったとしたら、主人公のそれは、独り高温で燃え続ける青い炎のように思えた。

こういうふうに記してくると、私が本書を批判しているように思われるかもしれない。だが、決してそうではない。とてもおもしろく読むことができた。私も誰かにオススメしたいとさえ思えた。その理由は以下の2点にまとめることができると思う。

第一点は、本書が研究者としての在り方を描いている点だ。“大学”という組織のしがらみの中で、純粋に研究をするということの難しさ。自然科学者として在るべき姿勢、自然科学者の観ている世界の豊かさ等々について描かれてる。本書の帯に「この本を読むと・考えてもわからなかったことが突然わかるようになります。・探してもみつからなかったものがみつかるかもしれません。(中略)・年齢性別関係なくとにかくなにかが学びたくなります」と書かれているが、これは誇大広告ではない。確かに、何かを学ぶということの醍醐味の一端が、本書を通して、およそ研究には向かない怠惰な私にも感じられた。

二点目は、先述の通り、本書が外連味たっぷりなドラマ性を、一切、排除している点だ。一般的な人間の生活、つまり私たちの生の生活は、得てしてドラマのようにはドラマチックではない(←ヘンな文章w)。本書にも、もちろん創作なのだから、ある程度のエンタメ性は加味されているのだろうが、繰り返しになるが、全体を通じて特に大きな出来事があるわけではない。いたって平坦な物語が展開するに過ぎない。

このようなエンタメ性を排除した文章は、ちょっぴり物足りなさを感じさせるかもしれない。しかし、私たちの日常で、実際に起こっていることは、映画や小説のように何かの前フリであったり、後日、見事に回収されるものではない。あのときのあれはなんだったのだろう、と後々振り返ってみてもスッキリしないこともたくさんある。日常的な出来事は、その後に起こるドラマの布石や暗示ではない。

だから、取り立てて何も起こらない主人公の物語世界は、私たちの住む生の世界はそんなに離れてはいない、地続きの世界であるように感じられる。そこに「日常」というリアリティを共有する余地が生まれる。主人公と私とは、先述のごとく全く趣を異とする人間だが、にも関わらず、主人公の気持ちに共感できる。こういう人もいるんだなぁ、と思える。だから、主人公がいきなり喜嶋先生を尊敬していたとしても、確かに、本人に出会う前から、周囲に立派な先生だという評判を聞かされていたら、そういう評判の影響で、そうなることってあるよね、とも思える。それは、本書が私たちの世界と地続きの世界を描いているからだろうと思う。行間を私たちの持っているリアリティで埋めながら読めるのだ。それが本書の最大の魅力であると感じた。

現実を徹底的に描写することがリアリズムなのではない、ということを本書は教えてくれた。そんな意義深い読書体験に導いてくれた友人の彼女さんに感謝しています。