1冊目 『コンビニ人間』
『コンビニ人間』 村田沙耶香著、読了
年始にBSジャパンで放送された、
「文筆系トークバラエティ ご本、出しときますね?」
のSP番組に著者が出演していた。
その時の彼女のチャーミングさ、面白さに胸を打たれて本書を読もうと思った。
また、友人がブログで本書を取り上げていたこともインセンティブになった。
主人公、古倉恵子は36歳の女性。
ちょっと普通じゃない彼女は、
これまでに恋愛も結婚も就職もせず、
コンビニのアルバイトだけが社会との接点。
読み始めてすぐの頃は、
この主人公はブッダの悟りの境地に近いのかな?
という感想を抱いた。
以前、『仏教思想のゼロポイント』 魚川祐司著 を読んだことがある。
これまでにさまざまな「偉い人」たちによって加筆修正されたものではなく、
ブッダ本人による「悟り」のオリジナルな姿とはどのようなものだったのか。
それに迫ろうという主旨の名著だった。
そして、私の拙い理解によれば、
ブッダの悟りとは「あらゆる現象を徹底的に物理現象とみなすこと」のようだ。
感覚、感情、意志、理性といった心的現象も含めて、
この世界で起こる現象はすべて物理現象に過ぎない。
例えば、「リンゴが樹から落ちる」という現象に、
善いとか悪いとか、正しいとか間違っているとか、尊いとか賤しいとか、価値があるとかないといった属性はない。
ただ、物理的に「リンゴが樹から落ちる」という現象があるだけ。
それと同じように、例えば「人を愛する」ことにも、
善悪、正誤、貴賤、価値といったものはない。
ただ物理的な現象として「人を愛する」だけ。
本書の冒頭を読んでいると、主人公もそういう世界観に生きているように思えた。
例えば幼稚園のころ、公園で小鳥が死んでいたことがある。どこかで飼われていたと思われる、青いきれいな小鳥だった。ぐにゃりと首を曲げて目を閉じている小鳥を囲んで、他の子供たちは泣いていた。
(中略)
私の頭を撫でて優しく言った母に、私は、「これ、食べよう」と言った。
(中略)
「小鳥さんはね、お墓をつくって埋めてあげよう。ほら、皆も泣いているよ。お友達が死んじゃって寂しいね。ね、かわいそうでしょう?」
「なんで?せっかく死んでるのに」私の疑問に、母は絶句した。
私は、父とまだ小さい妹が、喜んで小鳥を食べているところしか想像できなかった。(中略)何で食べないで埋めてしまうのか、私にはわからなかった。
家族は私を大切に、愛してくれていて、だからこそ、いつも私のことを心配していた。
「どうすれば『治る』のかしらね」
母と父が相談しているのを聞き、自分は何かを修正しなければならないのだなあ、と思ったのを覚えている。
「なんか恵子変わったね」
(中略)
それはそうだと私は思った。だって私の摂取する「世界」は入れ替わっているのだから。前に友達と会ったとき身体の中にあった水が、今はもうほとんどなくなっていて、違う水に入れ替わっているように、私を形成するものが変化している。
(中略)
身に付けている洋服も、発する言葉のリズムも変わってしまった私が笑っている。友達は、誰と話しているのだろう。それでも「懐かしい」という言葉を連発しながら、ユカリは私に笑いかけ続ける。
このように主人公の視点は、生死に対しても、他者に対しても、自分に対しても、一定の距離を保っている。
それはあたかも、「リンゴが樹から落ちる」のを眺めているかのようだ。
透明な「私」という筒の中を通過していく「世界」を眺めているだけの「眼」のような存在。
そこには価値判断の装置である「脳」が搭載されていない。
主人公のそんな視角が、一瞬、私にブッダの悟りを連想させた。
さらに読み進めて、
副主人公たる白羽という35歳の男に同棲を持ちかける件まで来ると、
今度はカントが想定した理性的な人間ってこんな感じなのかな?
と思うようになった。
36歳になって結婚も就職もしない主人公は、
周囲から異様な存在として認識され始めている。
白羽もまた、(別の意味で)世の中から異物として見做されている。
「普通」の人たちのなかで、生きづらさを抱えている二人が、ひょんなことからファミレスで話をすることになる。
ここでの主人公は、
生きづらさの原因を「世の中」の所為にして、独善的な理屈で糾弾する白羽に対し、
飽くまで冷静で論理的だ。
「え、自分の人生に干渉してくる人たちを嫌っているのに、わざわざ、その人たちに文句を言われないために生き方を選択するんですか?」
それは結局、世界を全面的に受容することなのでは、と不思議に思った(後略)
さっきまで文句をつけられて腹をたてていたのに、自分を苦しめているのと同じ価値観の理屈で私に文句を垂れ流す白羽さんは支離滅裂だと思ったが、自分の人生を強姦されていると思っている人は、他人の人生を同じように攻撃すると、少しは気が晴れるのかもしれなかった。
「白羽さんの言うとおり、世界は縄文時代なのかもしれないですね。ムラに必要のない人間は迫害され、敬遠される。つまりコンビニと同じ構造なんですね。(中略)コンビニに居続けるには『店員』になるしかないですよね。それは簡単なことです、制服を着てマニュアル通りに振る舞うこと。(中略)つまり、皆の中にある『普通の人間』という架空の生き物を演じるんです。あのコンビニエンスストアで、全員が『店員』という架空の生き物を演じているのと同じですよ」
あの、悪いんですけど、もう夜なんで、寝てもいいですか?(中略)明日も朝からコンビニなんです。時給の中には健康な状態で店に向かうという自己管理に対するお金も含まれてるって、16年前、2人目の店長に習いました。寝不足で店に行くわけにはいかないんですが」
ここでの主人公の論理的な思考も去ることながら、
「健康な状態で店に向かうという自己管理」のために寝る、
という自分で設定したルールに従おうとするこの行動様式は、
カントの考える道徳観や自由に似ているように思えた。
例えば「人のものは盗まない」というルールを自分で設定したとする。
その後、例え餓え死にしそうになっても、
他人の畑のものを盗んで食べずにいるとき、その人は自由だ。
カントはそう考えた。
こんな時、動物なら空腹に耐えられず、盗んで食べてしまうだろう。
しかし人間には理性がある。
例え自分の首を絞めることになっても、
自分で決めたルールに従うことができる。
そんな時、人間は本能的な欲求や社会的な規則の奴隷ではなく、自由なのだ。
ここまで、(飽くまで私の理解するところの)ブッダだとかカントだとか、
いささか大仰な感想を抱きながら読み進めてきたが、
終盤に至って、主人公はそういう「リッパなひと」でないことがわかる。
コンビニを辞職させられた主人公は、一気に生活不全に陥ってしまう。
生きる意味を失ってしまう。
(コンビニの店員として働き始めた)そのとき、私は、初めて、世界の部品になることができたのだった。私は、今、自分が生まれたのだと思った。世界の正常な部品としての私が、この日、確かに誕生したのだった。
※()内引用者補足
「店員」になる前の主人公は、ナニモノでもなかった。
だから世界に対して、とくに意味を見出す必要はなかった。
「脳」は持たず、透明な「眼」でいればよかった。
でも、「店員」という部品として誕生した彼女は、
歯車として世界と接続したものになった。
そして、それは「店員」という「私」の誕生でもある。
「店員」としての彼女はもはや、世界から独立しては存在できない。
そして、この世界に「店員」として生きることの意味を探し始める。
「脳」を搭載した生き物になる。
だから「店員」でない自分は、世界から切断された存在となる。
生きる意味が見いだせない。
私はふと、さっき出てきたコンビニの窓に映る自分の姿を眺めた。この手も足も、コンビニのために存在していると思うと、ガラスの中の自分が、初めて、意味のある生き物に思えた。
一度搭載された「脳」は、もはや「眼」だけであることを許さない。
「気が付いたんです。私は人間である以上にコンビニ店員なんです。人間としていびつでも、たとえ食べていけなくてのたれ死んでも、そのことから逃れられないんです。私の細胞全部が、コンビニのために存在しているんです」
そして、「脳」が探し出した結論が、
例え「普通の人間」たちの社会に馴染まないものであってとしても、
それは「こちら側」に属するものだ。
それは「脳」を持つ存在が導き出した結論だ。
「普通の人間」と「コンビニ人間」は、どんなにかけ離れているように見えても、
「こちら側」に棲息しているという点では同じだ。
「コンビニ人間」も世界にはめ込まれたちっぽけな存在、
つまり凡夫なのだから。
その意味で、主人公は「治って」いる。
「悟り」を得た覚者ではなく、
阿弥陀仏による救済を受ける側にいる存在だという意味で。
読みながら『ケンガイ』というマンガを思い出した。
このマンガを読んでいなかったら、あるいは読む順番が逆だったら、
『コンビニ人間』は心の中で★5の評価を得ただろう。
それくらい面白い一冊だった。
でも『ケンガイ』に敬意を評するために、
泣く泣く本書は★4にとどめておかなければなるまい。