何冊よめるかな?

本棚の肥やしと化した本たちを供養するため始めたブログ

2018-21 「ない仕事」の作り方

みうらじゅん 著『「ない仕事」の作り方』読了

 みうらじゅん先生によって著されたビジネス書。

 私は三日坊主で、何ごとも長続きしない。どうすれば長続きするのか、その極意を知りたくて本書を手に取った。

人はよくわからないものに対して、すぐに「つまらない」と反応しがちです。しかし、それでは「普通」じゃないですか。(中略)「つまらないかもな」と思ったら、「つま……」くらいのタイミングで、「そこがいいんじゃない!」と全肯定し、「普通」な自分を否定していく。そうすることで、より面白く感じられ、自信が湧いてくるのです。

第一印象が悪いものは、「嫌だ」「違和感がある」と思い、普通の人はそこで拒絶します。しかしそれほどのものを、どうやったら好きになれるだろうかと、自分を「洗脳」していくほうが、好きなものを普通に好きだと言うよりも、よっぽど面白い 

(天狗も)ゴムヘビもそもそも好きだったものではありません。 すべて、「私はこれを絶対好きになる」と自分を洗脳したのです。

*()内、引用者捕捉

映画館で、鑑賞後のエレベーターのあたりですぐに「つまんなかったね」と、一言で片づける人がいます。それは才能と経験のない人です。映画は、面白いところを自分で見つけるものなのです。

私は仕事をする際、「大人数に受けよう」という気持ちでは動いていません。それどころか、「この雑誌の連載は、あの後輩が笑ってくれるように書こう」「このイベントはいつもきてくれるあのファンにウケたい」と 、ほぼ近しい一人や二人に向けてやっています。(中略)私の場合、そんな「喜ばせたい読者」の最高峰は誰かと言えば、それは母親です。

友達の話を勝手に書いてその友達が怒っても、面白いエロ話を書いて昔の恋人が「あれ、私の話?」と問い詰めてきても、母親さえ許してくれれば、そして「おもろいわ」と言ってくれればそれでいいのです。逆に言えば、母親が嫌がりそうなことだけをやらなければいいのです。 

最初に単発の仕事を頼んでくれた編集者がいたとします。当然、自分の何かを面白がってくれたから依頼が来るわけです。だとしたら、自分のやりたいことはとりあえずさておき、その編集者が喜ぶような仕事をしなければなりません。

 仕事でも趣味でも、日々自分自身にノルマや締切を与えて、もう一人の自分が斜め上からコーチしているような気持ちで実行すると、より一層がんばれるような気がします。 

私が何かをやるときの主語は、あくまで「私が」ではありません。「海女が」とか「仏像が」という観点から始めるのです。  

不自然なことをやり続けるためには「飽きないふりをする」ことも大切です。世の中に流行った頃には、とっくに飽きています。そこは人間ですから当然です。ただ、「もう飽きた」といってしまうのは「自然」です。人に「え、まだそれやってるの!?」と驚かれるほど続けなければ面白くなりません。  

すべては「グッとくる」ところから始まります。何かを見たり聞いたりしたときに、すぐに好きか嫌いかを判断できるものは、そこで終わりなのです。好きなのか嫌いなのか自分でもわからないもの。違和感しか感じないもの。言葉では説明できないもの。私はそういうものにグッとくるのです。いつかこの、グッときたものを人に伝わるように具現化したい。それが私の仕事のモチベーションです。 

 「キープオン・ロケンロール」言うは易いですが、やり続けることが大切なのです。何かを好きになるというのは、自分を徐々に洗脳して、長く時間をかけて修行をして、対象のことを深く知ってからでないと、長続きもしないし、人を説得することもできないということです。

 「好きこそものの上手なれ」

 このことわざは、正確ではなかった。

 「好きなふりしつづけてこそものの上手なれ」

 これこそ、みうらじゅん先生が説かれた真理なのです。

「ない仕事」の作り方

「ない仕事」の作り方

 

2018-20 おもいでエマノン

梶尾真治 著(鶴田謙二 イラスト)『おもいでエマノン』読了

 私は漫画やアニメ、映画、音楽などが好きだ。私と同様の趣味を持っている親戚がいる。先日、そのひとから、私の好みに合いそうだいうことで、『おもいでエマノン』という漫画を紹介してもらった。読んでみて、とてもすばらしかった。そして、この漫画には、原作があるらしいことを知ったので、早速、読んでみよう、と本書を手に取った。

 本書は、同名の短編「おもいでエマノン」を含む、8編の短編からなる連作小説だ。この8編すべてに、ジーンズに粗編みのセーター、長髪でそばかすのある、異国的な顔立ちの「エマノン」という美少女が登場する。

 彼女は母親の記憶を受け継いでいる。彼女の母親は、そのまた母親の記憶を受け継いでいる。そして、それは地球に誕生した初めての生命まで遡ることができる。つまり、彼女は、地球上に生命が誕生してから、三十数億年の記憶を持っていることになる。

 要するに、これはSF作品なのだが、「おもいでエマノン」は、いわゆるSFチックな感じではなく、とても文学的な情緒が感じられる短編だった。

 だが、「おもいでエマノン」以外の7篇は、私には、長い蛇足のように感じられた。この感想は、あながち的外れではないかもしれない。本書の巻末に著者と、イラストを手がけた鶴田謙二との対談が載っている。その中で、「僕としては続編を書くつもりはなかったんです。「おもいでエマノン」は、あれで完結しているんで」と、著者自身が語っているからだ。

 「おもいでエマノン」では、生命が誕生して以来の記憶を宿したエマノンだけが特殊な存在として描かれている。彼女以外の人たちは、私たちと同じごく普通の人間だ。だからこそ、エマノンという存在が本当か否かといった、ミステリアスな雰囲気が味わえる。

 ところが、「おもいでエマノン」と「ゆきずりアムネジア」を除く6編には、彼女と同等の特殊能力を持っている人物たちが登場する。

 エマノンの血液を輸血されたために、エマノンと同じ記憶を得た少年。脅威の再生能力を持ち、人の心を読める少年。地球上の生命に進化を促した地球外生命体。エマノンと真逆で、未来の記憶を持った青年。エマノンが動物の記憶を受け継いできたのと同様に、地球に誕生して以来の植物の記憶を受け継いできたアイオンという名の植物。生物を絶滅する危機から救うために時を跳躍することのできる少女。

 彼らが登場した瞬間、物語はSF的になってしまう。「おもいでエマノン」を読み終えたときには、私たちの日常の中に、もしかしたらエマノンがいるかもしれない。そんな気にさせられる。だが、「おもいでエマノン」(と「ゆきずりアムネジア」)以外の短編では、初めから作り話のように感じられ、物語に没入出来なかった。要するに、「おもいでエマノン」とその他の短編では、リアリティ・ラインがあまりにも違いすぎているように思えた。

 もし、エマノンシリーズとしてではなく、それぞれ独立の物語として書かれた短編集だったら、こんなに印象が悪くなかったと思う。それぞれのお話のアイデアは、とても興味深いものだったからだ。つまり、「おもいでエマノン」が、それだけ完成された短編だったということなのです。

おもいでエマノン (徳間文庫)

おもいでエマノン (徳間文庫)

 

2018-19 近現代の芸術史Ⅰ〜欧米のモダニズムとその後の運動

林洋子 編『近現代の芸術史Ⅰ〜欧米のモダニズムとその後の運動』読了

 知識は系統的に学ばなければならない。それが師匠の基本的な教えだった。何かを系統的に学ぶということ。まずは、そのことについての歴史を学ぶということだろう。科学なら科学史、哲学なら哲学史という具合に。

 私は芸術について学びたい。これまにも美術史関連の入門書をいくつか読んできた。本書は、美術史の中でも、特に近現代の美術について取り上げたもの。現代美術については興味はある。でもなにやら難しそうだ。でも、知りたい。そんなわけで、本書を手に取った。

 何でこんなのが芸術なんだろう。頭に「?」しか浮かばないような経験を、美術館ですることがある。20世紀以降の作品にそういうものが多い気がする。「自分の感性が追いついていない」「自分の感性にはあわない」といって、納得してしまいがちだった。

 本書には、20世紀からはじまる藝術の動向がまとめられている。フォービスム、表現主義キュビスム抽象絵画など、20世紀初頭は、藝術の諸要素の中から、例えば形なら形、色なら色と言った一要素を取り出して追求する動きが起こった。さらに、ダダ、シュルレアリスムなど、「藝術とは何か」という命題に真っ向から挑んだ、謂わば哲学としての藝術も起こった。

 そのような根本への問を皮切りに、コンセプチュアル・アートミニマリズムなどなど、多様な芸術動向が誕生した。

 また、20世紀は戦争や革命の世紀と評される。藝術も人間の営みである以上、そうした人間社会の動向と無縁ではありえない。時代の空気、時代というものの影響。そんな視点から、近現代の藝術の流れを見つめる構成にもなっている。

 ときに激しく過去の藝術を否定する。ときに過去の藝術に回帰する。そのように行きつ戻りつしながら、藝術の歴史は綴られてきた。そしてそのダイナミズムは、時代が下るほどに加速していく。これが読み終えてのいちばん大きな印象だ。

 そして、この印象は、決して藝術という分野に限った話ではないだろう、とも思う。あらゆる人類の歴史がこのようなパターンで綴られてきたのだろう。そんな歴史の普遍性をも思った。

 今まで馴染みがないから、「?」で終わることが多く、いまいち興味が持てずにいた現代美術の印象が、大きく変わった。こんなに面白かったのか!!そう思えたことが、今回の読書体験の、最大の収穫だ。

 本書は「芸術教養シリーズ」の第7巻にあたる。このシリーズは、「芸術大学の新入生を読者として想定していると同時に、社会人にとっての教養の糧になることも念頭に置いて作成されている」とのこと。Ach!まさに、私のような人間のための一冊だ!とても勉強になったし、このシリーズの他の巻も、今後、読んでみたい。

2018-18 正しい保健体育Ⅱ〜結婚編

みうらじゅん 著『正しい保健体育Ⅱ〜結婚編』読了

『正しい保健体育』の続編。『正しい保健体育』は、主に思春期の過ごし方について書かれていたけれど、本書は結婚生活について書かれている。読んだのは今回がはじめて。

 本書にも本当のことが、たくさん書かれていた。未だに自分塾での勉強が終わらない私には、耳に痛いことも多かった。

 その代表例をば…

『正しい保健体育』では、童貞はこじらせたほうがいいと教えてきました。そのほうが優しさと創造力を育むからです。

 昨今、この教えが曲解されて、「こじらせること」に重点が置かれるようになってしまいました。(中略)

 そうではないのです。「こじらせて」「治す」ことが大事なのです。「こじらせて」「遠回りして」「戻ってくる」のが重要で、そこでかつての自分を思い出して笑う余裕を持たなければならないのです。

 他の誰でもない、みうらじゅん先生がこう仰せなのだから、私も私を笑い飛ばせるくらいの器に作り上げていかなければならんでしょう。またひとつ大切なことを学ばせていただきました。

 

2018-17 正しい保健体育

みうらじゅん 著『正しい保健体育』読了

 読むのは今回で4度目くらいだろうか。

 私は本書を、数少ない「本物の名著」だと思っている。なぜ、本書は「本物の名著」なのか。それは、本書には、「本当のこと」が記されているからだ。

 「本当のこと」は、しばしば耳に痛い。「本当のこと」は、しばしば都合が悪い。だから誰もが巧妙に、「本当のこと」を隠している。例えば知人の個展に招かれたとしよう。正直に感想を言えるだろうか。“世界にひとつだけの花”なんて、「正しいこと」を持ち出して誤魔化したりしないだろうか。「正しいこと」と「本当のこと」。はじめは両者を切り分けているつもりだ。でも「正しいこと」は気持ちいい。誰も傷つけないから。誰からも責められないから。そして、「正しいこと」で包み隠すことが上手になりすぎると、だんだん「本当のこと」が見えなくなる。瞳、それ自体が曇ってしまうから。

 人によっては、本書をふざけた一冊だと思うだろう。下ネタが満載で、それだけで嫌厭するひとも多いかもしれない。本書の冒頭部分を引用してみよう。

 もともと男子は、金玉に支配されるようにできています。

 金玉というのが本体で、その着ぐるみの中に全部入っているのが、人間の男なのです。

 本書は全編こんな感じの「悪ふざけ」や「下ネタ」でできている。でも、外身に騙されてはいけない。その奥には「本当のこと」が記されている。「本当のこと」って「大切なこと」のはずだ。「大切なこと」をないがしろにしていいはずはない。上記引用のあとにはこんな文章が続く。

 いつのまにか進化した人間は、その「金玉の着ぐるみ」からはみ出した部分が大きくなってしまいました。しかし、はみ出したとはいえ、その大本にあるのが金玉であることにはかわりありません。

 ですので、そのはみ出した部分を「義務教育」でうめて、金玉に支配されないようにしているのです、義務教育とは「支配からの卒業」なのです。

  これって「本当のこと」だと思いませんか?

 薬はしばしば口に苦い。だから飲みやすくするために糖衣で加工する。「本当のこと」は耳に痛い。都合が悪い。だから受け取りやすいように、本書では「悪ふざけ」や「下ネタ」で加工されている。甘いけれど、それは薬だ。ふざけているけれど、それは「本当のこと」だ。瞳が曇ってくると、私は本書を読み返したくなる。王様の耳はロバの耳だってことを、ときどき再確認するために。

(前略)健康診断は嫌なものです。採血したりバリウムを飲んだり、そんなことを好き好んでやる人などいません。

 それでもなぜ、健康診断をうけなくてはならないか。それは「大切な人のために」なのです。

正しい保健体育 (よりみちパン!セ)

正しい保健体育 (よりみちパン!セ)

 

2018-16 一休・骸骨

乃木 著『一休・骸骨』読了

 本書のことを知っている人は少ないと思われる。なぜというに著者はプロの作家ではないからだ。著者の本業は映像クリエイターで、ダニエルさんという画家の方と一緒に「カエサルの休日」というpodcast番組を主宰されている。

 私はこのpodcastの大ファンで第1回目から聴いている。番組内で著者は小説を趣味として執筆していることを明かしていたが、数ヶ月前、自著を電子書籍として無料で公開したことを番組内で公表。即購入。他に読むべき本があったため遅くなってしまったがついに読むことができた。

 本書は一休宗純地獄太夫を題材にした時代小説だ。著者が歴史についての造詣が深いことは番組のリスナーなら誰でも知っている。とはいえ本書はあくまで「素人が趣味で書いた小説」だ。正直、そこまで期待しないで読みはじめた。

 しかし、私のその心構えは間違っていたことが直ぐにわかった。単におもしろかったという感想では済まない。読後、「凄いものを読んだ」という興奮と、その興奮ゆえの半ば虚脱感のようなものに捕らわれたものだ。

 何がそこまで私に迫ったのか。

「凄い」と感じる作品は作品全体として迫ってくるのであって、どこか一部分を取り出して要素還元的に分析することはむずかしい。まして、それを言語化する力は私にはない。言語化した途端、私が感じた「凄さ」は失われてしまう気がする。でも、本書について敢えてその愚を犯すならば、それは「因果律の超克」という主題にあると思う。

 私の、ちょっと大げさに言えば人生のテーマとして「因果律の超克」というのがある。悪いことをすると地獄に堕ちる。善いことをすると天国に行ける。そんな素朴で、素朴であるだけに力強い道徳律。「情けは人のためならず」なんて言葉の重みを実感として持っている人も少なくないのではないか。因から果をみればこのようになるが、果から因をみると「今、あなたが不幸なのは、過去の行いが悪いからです」となる。

 思い出すと顔から火が出るくらい恥ずかしい過去の過ちのひとつやふたつ、誰にでもあるだろう。最近のアニメでタイムリープものが多いのは、それだけ過去を修正したいという願望を強く持っている人たちが多いから、という論評を耳にしたことがある。

 過去は変えられない。過去に縛られても意味はない。頭では理解しているが「因果律」の呪縛は手強い。過去は取り返しがつかないだけに、心の重荷になる。膨らみ続ける。前世の悪行まで背負うことになる。キリストが殺された責任まで背負うことになる。

 私は、こうした過去の呪縛を、素朴ゆえに根強い因果律を乗り越えたい。そんなもの背負わなくてもいいよ、と言いたい。

 本書の主人公は山賊だ。人身売買、盗み、人殺しなど、悪逆非道な生き方をしてきた。ある日、一休と出会う。その後、しばらくして山賊をやめて下山しようとする。しかし、その途中で自分が殺した村人の身内に捕縛され裁かれる。主人公は自分の罪を認め、遺族たちのために殺されてやろうと思う。だが、主人公が処刑される直前に再び一休が現れ彼の命を救う。一休は言う。

云うまでもない。おのれは多くの人間を不幸にした。なれど果たしてその報いはおのれを救うであろう。罰も報いも、即ちひとつの果というものは救いに他ならぬ。善果報に悪因果、縁起に恩讐、これみな理じゃ、筋道じゃ。おのれは然るもので許されてはならぬ。何となればおのれの悪には因も種もないからじゃ

 では、どうすればいいのか、という主人公に対し、さらに一休は言う。

何もなすな。悪はもとより善も為すな。何びとも助けるな。救うな。悉く見捨てよ。善人も悪人も、貴人も凡下も誰一人救うてはならん。善があればこそ悪もあらん。(一部引用者改変)

 そして、「二漏」という名を与えられ、主人公の善も悪も成さないという修行の旅が始まる。そして、その後、二漏は過去の大きな過ちと直面させられる。

 これだけ深いテーマを描いた物語をどのように締めくくるのか。著者は、くり返しになるが、あくまでもプロの小説家ではない。物語に没入しつつも、読み終えるまで、どこかで不安はあった。広げるには広げてみたが、風呂敷をたためず終える作品はザラにあるからだ。プロの作家でさえも。にもかかわらず、この物語は見事に着地した。「因果律の超克」への示唆をたくさん与えてくれたうえに物語としてもすばらしかった。

 これだけの筆力を持ったひとが在野にいることへの驚きも加わって、本書は他書では得がたい読書体験を与えてくれた。文句なく★5。オススメです!

一休・骸骨

一休・骸骨

 
 【追記】
 先日公開された、カエサルの休日「第66回聴く音楽と作る音楽と、忘れられない音楽と」の中で、乃木さんが「拙著のことを取り上げてくれたブログがあった」と言及されていた。プライバシーに配慮して、番組内でブログ名は明かしておられなかったが、「そんなブログはひとつしかない」とも仰っていたので、かなりの確率で当ブログのことを言及してくれたことになる。世界中でたったひとり、私の友人にしか存在を知られていないこのブログのことを、大ファンのポッドキャスターの方に取り上げてもらえるなんて、藤井聡太六段(2018.5現在)ではないが、こんな僥倖にめぐりあえるなんて、天にも昇る気分でございました。ありがたや、ありがたや。

2018年の15冊目 炭水化物が人類を滅ぼす〜糖質制限からみた生命の科学

夏井睦 著『炭水化物が人類を滅ぼす〜糖質制限からみた生命の科学』読了

 今年、新年を迎えるにあたって、3つの目標をたてた。

  1. 1年間で50冊以上の本を読む
  2. デスボイスをマスターする
  3. 1日、10分でもいいから、毎日、絵を描く

 目標は破られるためにある。あるいは、目標が果たせないことで、いかに自分という存在が情けないかを確認するためにある。にも関わらず、自分でも意外なことに、「デスボイスをマスターする」が2月に、早々に達成できてしまった。(厳密にはfalse chord screamが出せるようになった)まだ今年も始まったばかりだし、新たな目標をどうしようか、と迷っていたとき、新聞で糖質制限についての記事を見つけた。これを新しい目標にしよう。

 新聞の記事だけでは、心許ないので、もう少し詳しい糖質制限に関する書籍はないか、と図書館に赴いて、本書を見つけた。類書は他にもあったが、私が『もやしもん』にはまっていた頃、著者の前著『傷はぜったい消毒するな』を読み、たいへん面白かった覚えがあるので、今回も著者の本を手に取った次第だ。

 大変興味深かった。あまりに面白かったので、図書館で借りるだけでは飽き足らず、書店で購入してしまった。

 著者の主張を一言でいえば、「人類に炭水化物は必要ない」

 糖質制限の具体的なやり方や、その効用についての記述は、はじめの1/4程度に過ぎない。残りの3/4は、糖質(≒炭水化物)と人類の関係について、栄養学、文化人類学、医学、生物学など、学際的かつ多角的な視点から論じられている。そのどれもが、スリリングでおもしろいのだ。

 だが、おもしろさには注意が必要だ。特に自然科学に関しては、おもしろさだけで邁進すると、「仮説」ではなく「妄想(飛躍した思いつき)」になってしまうおそれがある。著者に反論する立場、つまり炭水化物擁護派の人たちは、おそらくその点を批判するに違いない。

  本書で述べられる主張、仮説の正否は、今後の研究が必要だろうと思う。ただ、仮説の正否がどうあろうと、私がすばらしいと感じたのは、自らの仮説に対する批判は当然あるだろうとしたうえで、著者の科学に対する信念が、きちんと表明されている点だ。少し長くなるが、引用してみたい。

本書では仮説を大胆に展開している。読者によっては「根拠のない仮説を書くべきではない」と反感を持たれる方もいるだろう。それは十分承知の上だ。仮説が正しいことが後に証明されれば格好いいが、間違いだった場合は赤っ恥をかき、物笑いのタネにされるのがオチだ。一方、世の常として、正しい仮説よりは間違っている仮説のほうが圧倒的に多い。つまり、仮説を堂々と書くのは極めてリスキーといえる。

 だが、私はリスクを承知で次々と新しい仮説を考えては、書籍やネットを通じて公開している。理由は、魅力的な仮説を思い付いた科学者はそれを公開すべきであり、むしろ公開することが義務だと考えているからだ。複雑に入り組んでいる現実世界から真実を見出そうとするなら、仮定と仮説に基づいた思考実験は絶対に必要なのだ。

 そして、仮説は公開されて第三者の目に触れて初めて命を得るが、自分の頭の中にしまっておくだけでは単なる死蔵である。ならば公開しないという選択肢はありえないだろう。それで賞賛を得るか笑い物になるかは確率問題であり、それは科学の本質とは無関係なものだ。

 この信念に、全面的に賛成できるわけではない。仮説が間違っていた場合、恥をかいたり、嘲笑われるだけで済むとは限らない。こと健康に関する仮説においては、それを信じたことにより、被害を受ける人たちが出る可能性もある。かつて、放射性物質が健康によいと信じられて、深刻な健康被害にあった人々が、実際に数多くいた。この種の暗い科学の歴史の例は、枚挙にいとまがない。

 「仮説に対する責任」という倫理的な問題は残るものの、「複雑に入り組んでいる現実世界から真実を見出そうとするなら、仮定と仮説に基づいた思考実験は絶対に必要」「仮説は(中略)自分の頭の中にしまっておくだけでは単なる死蔵」になってしまうという部分には、激しく同意した。とくに私のような失敗を恐れて、新たな一歩を踏み出せない臆病な人間には、こうした大胆さも、少しは必要なのだろう。セントラル・ドグマでさえ疑う力を持っていることが、人間のひとつの自由であり、価値だと思う。

 本書で展開される仮説には、少なくとも私には説得力があると思えた。仮説に説得力を持たせるには、それだけ深い勉強も必要になるだろう。「思いつき」と「仮説」違いはそこら辺にあるんだろうな、私が仮説を公開できないのは、勉強量が圧倒的に足りないんだろうな、そんな反省をさせてもらえる読書体験になった。

炭水化物が人類を滅ぼす?糖質制限からみた生命の科学? (光文社新書)
 

 

2018年の14冊目 生物から見た世界

『生物から見た世界』 ユクスキュル/クリサート 著 日高敏隆/羽田節子 訳、読了

 今年1月、師匠が亡くなった。師匠は大変な読書家で、3日に一冊というペースで読書をしておられた。弟子のなかでは、比較的読書をする方だった私には、いつも本の話をしてくれた。修行を終え、師匠の下を離れたあとも、ときどき、おもしろい本があると、紹介してくれた。ただ、師匠が読む本の多くは、難解な哲学書などで、紹介してもらっても、私には歯が立たないものも多く、課題図書は溜まってゆく一方だった。しかし、師匠がご逝去されたことを契機に、逃げずに課題図書に取り組もうと思う。 本書も師匠が紹介してくれた、いわゆるひとつの課題図書である。

 本書は「環世界」について書かれた本だ。「環世界」とはなにか。訳者あとがきに端的に示されている。

「環境」はある主体のまわりに単に存在しているもの(Umgebung)であるが、「環世界」はそれとは異なって、その主体が意味を与えて構築した世界(Umwelt)なのだ 

  私たちは客観的な「環境」(「自然」や「世界」と言ってもいい)のなかに、他の生物や植物をはじめ、あらゆる物体・物質と等価に置かれている、という素朴な世界観をもっているかもしれない。自然科学では、そのような客観的な環境(自然、世界)を扱うことが前提だ。

 だが、私たちは、本当はそういう客観的な環境になかに生きているのではない。環境に対して、主観的な意味付けをした独自の世界=環世界を生きている、というのがユクスキュルの視点だ。

 たしかに、納豆嫌いの私の世界には、スーパーマーケットの納豆売り場は、ほぼ存在しない場所だが、納豆がたまらなく好きな人には、スーパーマーケットの中でも、スポットライトで照らされた場所に見えるだろう。

 本書は、そのタイトルどうり生物学の本だろうし、著者も生物学者(動物学者)だ。しかし、その内容は、とても哲学的なものだ。実際、本書は、哲学の領域で取り上げられることも多いし、カントの「物自体」という概念にも関わってくる概念のように思えた。

 私はこの手の話が好きだし、興味があるので、本書は私の環世界のなかで、「とてもおもしろい本」という意味付けがなされた一冊となった。そんなに難解ではないし、「独我論」をテーマに卒論を書いていた頃の私に、もし出会えるなら、ぜひ紹介してあげたい一冊だった。

生物から見た世界 (岩波文庫)

生物から見た世界 (岩波文庫)

 

恋は雨上がりのように

 TVアニメ『恋は雨上がりのように』を観た。

 私はひねくれた人間だ。どれくらいひねくれているかというと、自分がひねくれている自覚がないくらい、ひねくれている。

 自分が病気である自覚のことを「病識」という。医療者にとって、病識のない患者は最も重症だという。自分が病気であるという自覚がないのだから、治ろうとしない。治ろうとしない病人は、いくら名医だとて、治しようがない。

 つまり、私は重症のひねくれ患者だ。だけど、この作品は、そんな私をして、これ以上ないくらい素直な気持ちにさせてくれた。あまりにも感じやすいから、普段は「ひねくれ」という殻で大切に守っている部分に、やさしい痛みを与えてくれた。

 『はじまりのうた』という映画がある。すばらしい映画だ。音楽を通じて出会った人たちが、傷つくのだけれど、また、音楽によって再生する。『恋は雨上がりのように』では、ひとりの少女の恋が、それぞれ立ち止まったままの、彼女自身と恋した相手を再生する。

 ストーリーはもちろん、セリフ、アニメーション(動画)、演出、背景、色彩、音楽、音響効果などなど、すべてが見事に調和して、物語を息づかせているように感じた。

 すばらしい映像体験だった。この時代に生まれ、この年齢で、この作品を観れたこと、そして、この作品を制作して下さった方々に、これ以上ないくらい素直に、「ありがとう」と伝えたい。

13冊目 どんな本でも大量に読める「速読」の本

 宇都出雅巳 著『どんな本でも大量に読める「速読」の本』読了

 一言でいえば、「ゼロではない」ということだ。

 とにかく本を眺めながら、パラパラとページをめくる。理解しようとか、解釈をはさもうとせず、ただ、物理的にページを繰る。難しそうだとか、時間がないとかいって、ページを開かずいるよりも、少しは本の中身を知ることができる。

 y=ax で、a>0 のとき 、y>0 となる。

 a=読まない=0 のとき、y=0 となる。

 速読とは、そういうもののようだ。

 本書の特色は、例え a が0.001でも、繰り返し読むことでことで a の値を増やすことができる、ということを主張している点だろう。今までにも著明な文筆家の読書論を読んできたが、この点を明確に打ち出している点で、本書は、速読の入門書として最適だと思う。

 私は以前から、「質より量」が数少ないこの世の真理のひとつなのではないか、とおもっていたが、本書はそうした私見を補強してくれる内容だった。子どものころに覚えたドラクエの呪文を、すべていまだに諳んじられるのは、子どもの記憶力が優れているわけではなく、ほぼ毎日のように、攻略本を眺めては楽しんでいたからだと思うのだ。

 速読した本を「読んだ」と表現することに、私は抵抗を感じてしまうので、速読した本や部分的にしか読んでいない本は、当ブログでは取り上げてないルールだが、速読には、速読なりの効用があることを、知ることができ、読書が、また一段と楽しくなりそうだ。

どんな本でも大量に読める「速読」の本 (だいわ文庫)

どんな本でも大量に読める「速読」の本 (だいわ文庫)