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本棚の肥やしと化した本たちを供養するため始めたブログ

2018-16 一休・骸骨

乃木 著『一休・骸骨』読了

 本書のことを知っている人は少ないと思われる。なぜというに著者はプロの作家ではないからだ。著者の本業は映像クリエイターで、ダニエルさんという画家の方と一緒に「カエサルの休日」というpodcast番組を主宰されている。

 私はこのpodcastの大ファンで第1回目から聴いている。番組内で著者は小説を趣味として執筆していることを明かしていたが、数ヶ月前、自著を電子書籍として無料で公開したことを番組内で公表。即購入。他に読むべき本があったため遅くなってしまったがついに読むことができた。

 本書は一休宗純地獄太夫を題材にした時代小説だ。著者が歴史についての造詣が深いことは番組のリスナーなら誰でも知っている。とはいえ本書はあくまで「素人が趣味で書いた小説」だ。正直、そこまで期待しないで読みはじめた。

 しかし、私のその心構えは間違っていたことが直ぐにわかった。単におもしろかったという感想では済まない。読後、「凄いものを読んだ」という興奮と、その興奮ゆえの半ば虚脱感のようなものに捕らわれたものだ。

 何がそこまで私に迫ったのか。

「凄い」と感じる作品は作品全体として迫ってくるのであって、どこか一部分を取り出して要素還元的に分析することはむずかしい。まして、それを言語化する力は私にはない。言語化した途端、私が感じた「凄さ」は失われてしまう気がする。でも、本書について敢えてその愚を犯すならば、それは「因果律の超克」という主題にあると思う。

 私の、ちょっと大げさに言えば人生のテーマとして「因果律の超克」というのがある。悪いことをすると地獄に堕ちる。善いことをすると天国に行ける。そんな素朴で、素朴であるだけに力強い道徳律。「情けは人のためならず」なんて言葉の重みを実感として持っている人も少なくないのではないか。因から果をみればこのようになるが、果から因をみると「今、あなたが不幸なのは、過去の行いが悪いからです」となる。

 思い出すと顔から火が出るくらい恥ずかしい過去の過ちのひとつやふたつ、誰にでもあるだろう。最近のアニメでタイムリープものが多いのは、それだけ過去を修正したいという願望を強く持っている人たちが多いから、という論評を耳にしたことがある。

 過去は変えられない。過去に縛られても意味はない。頭では理解しているが「因果律」の呪縛は手強い。過去は取り返しがつかないだけに、心の重荷になる。膨らみ続ける。前世の悪行まで背負うことになる。キリストが殺された責任まで背負うことになる。

 私は、こうした過去の呪縛を、素朴ゆえに根強い因果律を乗り越えたい。そんなもの背負わなくてもいいよ、と言いたい。

 本書の主人公は山賊だ。人身売買、盗み、人殺しなど、悪逆非道な生き方をしてきた。ある日、一休と出会う。その後、しばらくして山賊をやめて下山しようとする。しかし、その途中で自分が殺した村人の身内に捕縛され裁かれる。主人公は自分の罪を認め、遺族たちのために殺されてやろうと思う。だが、主人公が処刑される直前に再び一休が現れ彼の命を救う。一休は言う。

云うまでもない。おのれは多くの人間を不幸にした。なれど果たしてその報いはおのれを救うであろう。罰も報いも、即ちひとつの果というものは救いに他ならぬ。善果報に悪因果、縁起に恩讐、これみな理じゃ、筋道じゃ。おのれは然るもので許されてはならぬ。何となればおのれの悪には因も種もないからじゃ

 では、どうすればいいのか、という主人公に対し、さらに一休は言う。

何もなすな。悪はもとより善も為すな。何びとも助けるな。救うな。悉く見捨てよ。善人も悪人も、貴人も凡下も誰一人救うてはならん。善があればこそ悪もあらん。(一部引用者改変)

 そして、「二漏」という名を与えられ、主人公の善も悪も成さないという修行の旅が始まる。そして、その後、二漏は過去の大きな過ちと直面させられる。

 これだけ深いテーマを描いた物語をどのように締めくくるのか。著者は、くり返しになるが、あくまでもプロの小説家ではない。物語に没入しつつも、読み終えるまで、どこかで不安はあった。広げるには広げてみたが、風呂敷をたためず終える作品はザラにあるからだ。プロの作家でさえも。にもかかわらず、この物語は見事に着地した。「因果律の超克」への示唆をたくさん与えてくれたうえに物語としてもすばらしかった。

 これだけの筆力を持ったひとが在野にいることへの驚きも加わって、本書は他書では得がたい読書体験を与えてくれた。文句なく★5。オススメです!

一休・骸骨

一休・骸骨

 
 【追記】
 先日公開された、カエサルの休日「第66回聴く音楽と作る音楽と、忘れられない音楽と」の中で、乃木さんが「拙著のことを取り上げてくれたブログがあった」と言及されていた。プライバシーに配慮して、番組内でブログ名は明かしておられなかったが、「そんなブログはひとつしかない」とも仰っていたので、かなりの確率で当ブログのことを言及してくれたことになる。世界中でたったひとり、私の友人にしか存在を知られていないこのブログのことを、大ファンのポッドキャスターの方に取り上げてもらえるなんて、藤井聡太六段(2018.5現在)ではないが、こんな僥倖にめぐりあえるなんて、天にも昇る気分でございました。ありがたや、ありがたや。

2018年の15冊目 炭水化物が人類を滅ぼす〜糖質制限からみた生命の科学

夏井睦 著『炭水化物が人類を滅ぼす〜糖質制限からみた生命の科学』読了

 今年、新年を迎えるにあたって、3つの目標をたてた。

  1. 1年間で50冊以上の本を読む
  2. デスボイスをマスターする
  3. 1日、10分でもいいから、毎日、絵を描く

 目標は破られるためにある。あるいは、目標が果たせないことで、いかに自分という存在が情けないかを確認するためにある。にも関わらず、自分でも意外なことに、「デスボイスをマスターする」が2月に、早々に達成できてしまった。(厳密にはfalse chord screamが出せるようになった)まだ今年も始まったばかりだし、新たな目標をどうしようか、と迷っていたとき、新聞で糖質制限についての記事を見つけた。これを新しい目標にしよう。

 新聞の記事だけでは、心許ないので、もう少し詳しい糖質制限に関する書籍はないか、と図書館に赴いて、本書を見つけた。類書は他にもあったが、私が『もやしもん』にはまっていた頃、著者の前著『傷はぜったい消毒するな』を読み、たいへん面白かった覚えがあるので、今回も著者の本を手に取った次第だ。

 大変興味深かった。あまりに面白かったので、図書館で借りるだけでは飽き足らず、書店で購入してしまった。

 著者の主張を一言でいえば、「人類に炭水化物は必要ない」

 糖質制限の具体的なやり方や、その効用についての記述は、はじめの1/4程度に過ぎない。残りの3/4は、糖質(≒炭水化物)と人類の関係について、栄養学、文化人類学、医学、生物学など、学際的かつ多角的な視点から論じられている。そのどれもが、スリリングでおもしろいのだ。

 だが、おもしろさには注意が必要だ。特に自然科学に関しては、おもしろさだけで邁進すると、「仮説」ではなく「妄想(飛躍した思いつき)」になってしまうおそれがある。著者に反論する立場、つまり炭水化物擁護派の人たちは、おそらくその点を批判するに違いない。

  本書で述べられる主張、仮説の正否は、今後の研究が必要だろうと思う。ただ、仮説の正否がどうあろうと、私がすばらしいと感じたのは、自らの仮説に対する批判は当然あるだろうとしたうえで、著者の科学に対する信念が、きちんと表明されている点だ。少し長くなるが、引用してみたい。

本書では仮説を大胆に展開している。読者によっては「根拠のない仮説を書くべきではない」と反感を持たれる方もいるだろう。それは十分承知の上だ。仮説が正しいことが後に証明されれば格好いいが、間違いだった場合は赤っ恥をかき、物笑いのタネにされるのがオチだ。一方、世の常として、正しい仮説よりは間違っている仮説のほうが圧倒的に多い。つまり、仮説を堂々と書くのは極めてリスキーといえる。

 だが、私はリスクを承知で次々と新しい仮説を考えては、書籍やネットを通じて公開している。理由は、魅力的な仮説を思い付いた科学者はそれを公開すべきであり、むしろ公開することが義務だと考えているからだ。複雑に入り組んでいる現実世界から真実を見出そうとするなら、仮定と仮説に基づいた思考実験は絶対に必要なのだ。

 そして、仮説は公開されて第三者の目に触れて初めて命を得るが、自分の頭の中にしまっておくだけでは単なる死蔵である。ならば公開しないという選択肢はありえないだろう。それで賞賛を得るか笑い物になるかは確率問題であり、それは科学の本質とは無関係なものだ。

 この信念に、全面的に賛成できるわけではない。仮説が間違っていた場合、恥をかいたり、嘲笑われるだけで済むとは限らない。こと健康に関する仮説においては、それを信じたことにより、被害を受ける人たちが出る可能性もある。かつて、放射性物質が健康によいと信じられて、深刻な健康被害にあった人々が、実際に数多くいた。この種の暗い科学の歴史の例は、枚挙にいとまがない。

 「仮説に対する責任」という倫理的な問題は残るものの、「複雑に入り組んでいる現実世界から真実を見出そうとするなら、仮定と仮説に基づいた思考実験は絶対に必要」「仮説は(中略)自分の頭の中にしまっておくだけでは単なる死蔵」になってしまうという部分には、激しく同意した。とくに私のような失敗を恐れて、新たな一歩を踏み出せない臆病な人間には、こうした大胆さも、少しは必要なのだろう。セントラル・ドグマでさえ疑う力を持っていることが、人間のひとつの自由であり、価値だと思う。

 本書で展開される仮説には、少なくとも私には説得力があると思えた。仮説に説得力を持たせるには、それだけ深い勉強も必要になるだろう。「思いつき」と「仮説」違いはそこら辺にあるんだろうな、私が仮説を公開できないのは、勉強量が圧倒的に足りないんだろうな、そんな反省をさせてもらえる読書体験になった。

炭水化物が人類を滅ぼす?糖質制限からみた生命の科学? (光文社新書)
 

 

2018年の14冊目 生物から見た世界

『生物から見た世界』 ユクスキュル/クリサート 著 日高敏隆/羽田節子 訳、読了

 今年1月、師匠が亡くなった。師匠は大変な読書家で、3日に一冊というペースで読書をしておられた。弟子のなかでは、比較的読書をする方だった私には、いつも本の話をしてくれた。修行を終え、師匠の下を離れたあとも、ときどき、おもしろい本があると、紹介してくれた。ただ、師匠が読む本の多くは、難解な哲学書などで、紹介してもらっても、私には歯が立たないものも多く、課題図書は溜まってゆく一方だった。しかし、師匠がご逝去されたことを契機に、逃げずに課題図書に取り組もうと思う。 本書も師匠が紹介してくれた、いわゆるひとつの課題図書である。

 本書は「環世界」について書かれた本だ。「環世界」とはなにか。訳者あとがきに端的に示されている。

「環境」はある主体のまわりに単に存在しているもの(Umgebung)であるが、「環世界」はそれとは異なって、その主体が意味を与えて構築した世界(Umwelt)なのだ 

  私たちは客観的な「環境」(「自然」や「世界」と言ってもいい)のなかに、他の生物や植物をはじめ、あらゆる物体・物質と等価に置かれている、という素朴な世界観をもっているかもしれない。自然科学では、そのような客観的な環境(自然、世界)を扱うことが前提だ。

 だが、私たちは、本当はそういう客観的な環境になかに生きているのではない。環境に対して、主観的な意味付けをした独自の世界=環世界を生きている、というのがユクスキュルの視点だ。

 たしかに、納豆嫌いの私の世界には、スーパーマーケットの納豆売り場は、ほぼ存在しない場所だが、納豆がたまらなく好きな人には、スーパーマーケットの中でも、スポットライトで照らされた場所に見えるだろう。

 本書は、そのタイトルどうり生物学の本だろうし、著者も生物学者(動物学者)だ。しかし、その内容は、とても哲学的なものだ。実際、本書は、哲学の領域で取り上げられることも多いし、カントの「物自体」という概念にも関わってくる概念のように思えた。

 私はこの手の話が好きだし、興味があるので、本書は私の環世界のなかで、「とてもおもしろい本」という意味付けがなされた一冊となった。そんなに難解ではないし、「独我論」をテーマに卒論を書いていた頃の私に、もし出会えるなら、ぜひ紹介してあげたい一冊だった。

生物から見た世界 (岩波文庫)

生物から見た世界 (岩波文庫)

 

恋は雨上がりのように

 TVアニメ『恋は雨上がりのように』を観た。

 私はひねくれた人間だ。どれくらいひねくれているかというと、自分がひねくれている自覚がないくらい、ひねくれている。

 自分が病気である自覚のことを「病識」という。医療者にとって、病識のない患者は最も重症だという。自分が病気であるという自覚がないのだから、治ろうとしない。治ろうとしない病人は、いくら名医だとて、治しようがない。

 つまり、私は重症のひねくれ患者だ。だけど、この作品は、そんな私をして、これ以上ないくらい素直な気持ちにさせてくれた。あまりにも感じやすいから、普段は「ひねくれ」という殻で大切に守っている部分に、やさしい痛みを与えてくれた。

 『はじまりのうた』という映画がある。すばらしい映画だ。音楽を通じて出会った人たちが、傷つくのだけれど、また、音楽によって再生する。『恋は雨上がりのように』では、ひとりの少女の恋が、それぞれ立ち止まったままの、彼女自身と恋した相手を再生する。

 ストーリーはもちろん、セリフ、アニメーション(動画)、演出、背景、色彩、音楽、音響効果などなど、すべてが見事に調和して、物語を息づかせているように感じた。

 すばらしい映像体験だった。この時代に生まれ、この年齢で、この作品を観れたこと、そして、この作品を制作して下さった方々に、これ以上ないくらい素直に、「ありがとう」と伝えたい。

13冊目 どんな本でも大量に読める「速読」の本

 宇都出雅巳 著『どんな本でも大量に読める「速読」の本』読了

 一言でいえば、「ゼロではない」ということだ。

 とにかく本を眺めながら、パラパラとページをめくる。理解しようとか、解釈をはさもうとせず、ただ、物理的にページを繰る。難しそうだとか、時間がないとかいって、ページを開かずいるよりも、少しは本の中身を知ることができる。

 y=ax で、a>0 のとき 、y>0 となる。

 a=読まない=0 のとき、y=0 となる。

 速読とは、そういうもののようだ。

 本書の特色は、例え a が0.001でも、繰り返し読むことでことで a の値を増やすことができる、ということを主張している点だろう。今までにも著明な文筆家の読書論を読んできたが、この点を明確に打ち出している点で、本書は、速読の入門書として最適だと思う。

 私は以前から、「質より量」が数少ないこの世の真理のひとつなのではないか、とおもっていたが、本書はそうした私見を補強してくれる内容だった。子どものころに覚えたドラクエの呪文を、すべていまだに諳んじられるのは、子どもの記憶力が優れているわけではなく、ほぼ毎日のように、攻略本を眺めては楽しんでいたからだと思うのだ。

 速読した本を「読んだ」と表現することに、私は抵抗を感じてしまうので、速読した本や部分的にしか読んでいない本は、当ブログでは取り上げてないルールだが、速読には、速読なりの効用があることを、知ることができ、読書が、また一段と楽しくなりそうだ。

どんな本でも大量に読める「速読」の本 (だいわ文庫)

どんな本でも大量に読める「速読」の本 (だいわ文庫)

 

 

12冊目 銀河英雄伝説10〜落日篇

田中芳樹 著『銀河英雄伝説10〜落日篇』読了

本巻の主要トピック

・ラインハルト、ヒルダと結婚

・柊館炎上

・シヴァ星域会戦

ルビンスキーの火祭り

・地球教壊滅

 ついに、「銀英伝」本伝も最終巻。物語全体を通せば、本巻はクロージングに当てられているため、8巻や9巻に比べると、やや盛り上がりにはやや欠けるかもしれない。しかし、壮大な物語を締めくくるには、本一冊分くらいは必要だろうから、ある意味、これは必然だろう。そして、そのようにみるならば、巨大な恒星が落ち、新たな希望へとつなぐ、というとても美しい締めだった。

 「銀英伝」が名作であるとはいえ、ひとりの人間が生み出した物語だから、“完璧”というわけにはいかない。私が耳にした批判では、宇宙空間の艦隊戦なのに、戦闘シーンが二次元的だ、というものがある。私も、今回読んでいて、もし民主主義の種を残すことが、いちばん大切なのだというのなら、ヤンは帝国の要職に就いて、ユリアンが目指したように、憲法を制定させる、とか他の可能性に踏み出してもいいのでは?と思うところもあった。

 でも、「いい映画は、細かいほころびが気にならないし、つまらない映画は細かいほころびばかり気になってしまうもの」という。これだけの長編を、小さなほころびが気にならないように、最初から最期まで描ききった、著者の筆力には脱帽した。

 今回、はじめて原作を通読したわけだが、旧アニメ版を初めて観たときと同等、あいはそれ以上の感動を得ることができた。というか、旧アニメ版は、かなり原作に忠実に制作されていることがよくわかった。原作のちょっと難しい表現、たとえば、「〇〇することあたわず」みたいな文語的な表現を、そのまま採用したために、旧アニメ版も、原作の持つ格調の高さを表現できていたように思う。

 何でもわかりやすくすることが優先される現在、この4月から放映される新アニメ版はどのようになるだろう。同盟の理想、帝国の格調を損なうことなく、原作や旧アニメ版を超える名作を観てみたい!とは、あまりに欲張りだろうか。ともかく、今は、楽しみでしかたない。

「ね、ユリアン、とにかくバーラト星系は民主主義の手に残るのね」

「そう」

「たったそれだけなのね、考えてみると」

「そう、たったこれだけ」

 (中略)

たったこれだけのことが実現するのに、五〇〇年の歳月と、数千億の人命が必要だったのだ。銀河連邦の末期に、市民たちが政治に倦まなかったら、ただひとりの人間に、無制限の権力を与えることがいかに危険であるか、彼らが気づいていたら。市民の権利より国家の権威が優先されるような政治体制が、どれほど多くの人を不幸にするか、過去の歴史から学びえていたら。

(中略)

「政治なんておれたちに関係ないよ」という一言は、それを発した者に対する権利剥奪の宣言である。政治は、それを蔑視した者に対して、かならず復讐するのだ。ごくわずかな想像力があれば、それがわかるはずなのに。

ユリアン、あんたは政治指導者にはならないの。ハイネセン臨時政府の代表になるとか、そういうことはないの?」

「ぼくの予定表にはないね」

「あんたの予定は、それじゃ、どうなってるの」

「軍人になって専制主義の帝国と戦う、そしてその任務が終わったら……」

「終わったら?」

カリンの問いに、直接ユリアンは答えなかった。

銀河英雄伝説 〈10〉 落日篇 (創元SF文庫)

銀河英雄伝説 〈10〉 落日篇 (創元SF文庫)

 

11冊目 銀河英雄伝説9〜回天篇

田中芳樹 著『銀河英雄伝説9〜回天篇』読了

本巻の主要トピック

・ヨブ・トリューニヒト、新領土総督府高等参事官就任

・ラインハルトの求婚

・ウルヴァシー事件 〜ロイエンタール元帥叛逆事件(新領土動乱)

・第二次ランテマリオ星域会戦(双璧の争覇戦)

 銀英伝は、ラインハルトとヤンの2人を主人公に据えた物語だ。通常、物語には主人公がいて、その正反対の性質をもつ副主人公(ライバル)がいる。ラインハルトとヤンの関係も、確かに相対しているようにみえる。だが、例えるならば、ラインハルトは太陽(近づけば焼き尽くされる)、ヤンは暖炉の炎。どちらも「陽」に属す。ラインハルトに対する「陰」は、ロイエンタールが担っている。私はそのように読んでみた。「銀英伝」の中で、誰が好き?と問われれば、私は、さんざん悩んだ挙句、ヤン・ウェンリーと答えるだろう。では、誰が一番魅力的?と問われれば、梟雄オスカー・フォン・ロイエンタールと即答できる。左右の瞳の色が異なる「金銀妖瞳(ヘテロクロミア)」という、わかりやすい身体属性に象徴されるように、複雑な内面をもっていることが、その理由だ。おそらく著者も、お気に入りのキャラのひとりだったのではないか。というのも、 ここまで、多くの英雄たちが登場し、また去っていった。本巻において、ロイエンタールもまた去りゆくのだが、その去り際を、多くの紙面を割いて描いてるからだ。

  ロイエンタールという複雑な個性の最期も、単純なものではありえない。ロイエンタールの美学が存分に味わえる本巻もまた、大傑作でした。男泣き必至!

「わたしは、たしかにあなたを失いました。でも、最初からあなたがいなかったことに比べたら、わたしはずっと幸福です。あなたは何百万人もの人を殺したかもしれないけど、すくなくともわたしだけは幸福にしてくださったのよ」(フレデリカ) 

「ことばで伝わらないものが、たしかにある。だけど、それはことばを使いつくした人だけが言えることだ」

「だから、ことばというやつは、心という海に浮かんだ氷山みたいなものじゃないかな。海面から出ている部分はわずかだけど、それによって、海面下に存在する大きなものを知覚したり感じとったりすることができる」

「ことばをだいじに使いなさい、ユリアン。そうすれば、ただ沈黙しているより、多くのことをより正確に伝えられるのだからね……」(ヤン) 

「 あなた、ウォルフ、わたしはロイエンタール元帥を敬愛しています。それは、あの方があなたの親友でいらっしゃるから。でも、あの方があなたの敵におなりなら、わたしは無条件で、あの方を憎むことができます」(エヴァンゼリン)

「古代の、えらそうな奴がえらそうに言ったことがある。死ぬにあたって、幼い子供を託しえるような友人を持つことがかなえば、人生最上の幸福だ、と……ウォルフガング・ミッターマイヤーに会って、その子の将来を頼むがいい(後略)」(ロイエンタール) 

銀河英雄伝説〈9〉回天篇 (創元SF文庫)

銀河英雄伝説〈9〉回天篇 (創元SF文庫)

 

10冊目 銀河英雄伝説8〜乱離篇

田中芳樹 著『銀河英雄伝説8〜乱離篇』読了

本巻の主要トピック

・回廊の戦い 

フェザーン遷都

・イゼルローン共和政府樹立

 前に、第5巻のところで、戦記物としての「銀英伝」は、最大の山場をむかえると記した。本巻では、ドラマとしての「銀英伝」のひとつの大きな山場をむかえる。 そう、ついに、あのエピソードが描かれてしまうのだ。ネタバレを特に気にしない私をして、このエピソードだけは知らずにはじめての「銀英伝」を味わいたかったと思わしめた、あのエピソードが。

 だけど、今回こうして通読していると、このエピソードが起こることが、かなり早い段階から、あちらこちらに暗示されていることに気づいた。ストーリーを知っているから、気づけたのかもしれないが、読解力のある読者なら、容易に気づいてしまうだろうというくらい、暗示の味付けは濃い。とするならば、筆者はこのエピソード自体には、あまり重きをおかなかったのかもしれない、と思った。それは、驚きの展開という飛び道具によって読者をエンターテインするのではなく、飽くまでも物語そのものを読者に問うてみるという、著者の姿勢の真摯さのあらわれのような気がした。

 『魔女の宅急便』を観ることがきらいだった。それは、主人公キキが、自分の能力を失うシーンを観るのが辛かったからだ。本巻では、それと同じ種類の辛さを数千倍した感情に襲われる。できれば、そのシーンがこなければいいと思いながら、でも、それはこの物語を描くうえで、欠くべからざる展開なのだろう。眼から熱いものをダダ漏らしながら、本巻を読みおえた。

 物語も終盤をむかえた。原作の「銀英伝」をここまで読むのは、初めてだが、アニメ版では描かれない、ト書きの部分も読めるので、物語のより深いところまで味わえるきがして、最高の読書体験が続いている。

「いいことを教えてやろうか、ユリアン

「何です?」

「この世で一番強い台詞さ。どんな正論も雄弁も、この一言にはかなわない」

「無料で教えていただけるんでしたら」

「うん、それもいい台詞だな。だが、こいつにはかなわない。つまりな、《それがどうした》、というんだ」(アッテンボローユリアン) 

「フレデリカ、ちょっと宇宙一の美男子に会ってくるよ、二週間ぐらいで還ってくる」

「気をつけていってらしてね。あ、ちょっと、髪が乱れてるわ」

「いいよ、そんなこと」

「だめです、宇宙で二番目の美男子にお会いになるんだから」(ヤン&フレデリカ)

「よせよ、痛いじゃないかね」(パトリチェフ)

「人間は主義だの思想だののためには戦わないんだよ!主義や思想を体現した人のために戦うんだ。革命のために戦うのではなくて、革命家のために戦うんだ」(アッテンボロー

「わしはいままで何度か考えたことがあった。あのとき、リップシュタット戦役でラインハルト・フォン・ローエングラムに敗北したとき、死んでいたほうがよかったのかもしないと……だが、いまはそうは思わん。六〇歳近くまで、わしは失敗を恐れる生きかたをしてきた。そうではない生きかたもあることが、ようやくわかってきたのでな、それを教えてくれた人たちに、恩なり借りなり、返さねばなるまい」(メルカッツ)

「あなたから兇報を聞いたことは幾度もあるが、今回はきわめつけだ。それほど予を失望させる権利が、あなたにはあるのか?誰も彼も、敵も味方も、皆、予をおいて行ってしまう!なぜ予のために生きつづけないのか!」(ラインハルト)

「わたくし、フレデリカ・G・ヤンは、ここに民主共和政治を支持する人々の総意にもとづいて宣言します。イゼルローン共和政府の樹立を。アーレ・ハイネセンにはじまる自由と平等と人民主権への希求、それを実現させるための戦いが、なおつづくのだということを……この不利な、不遇な状況にあって、民主共和政治の小さな芽をはぐくんでくださる皆さんに感謝します。ありがとうございます。そして、すべてが終わったときには、ありがとうございました、と、そう申しあげることができればいいと思います……」(フレデリカ)

銀河英雄伝説 〈8〉 乱離篇 (創元SF文庫)

銀河英雄伝説 〈8〉 乱離篇 (創元SF文庫)

 

 

9冊目 銀河英雄伝説7〜怒濤篇

田中芳樹 著 『銀河英雄伝説7〜怒濤篇』読了

本巻の主要トピック

・ヤン艦隊、イゼルローン要塞を再奪取

・ マル・アデッタ星域会戦

・冬バラ園の勅令公布(自由惑星同盟の滅亡)

ロイエンタール、新領土総督就任

 本巻において、銀河を二分した勢力のひとつ、自由惑星同盟は、名実ともに消滅してしまう。銀河の大きな歴史が、また1ページめくられる。そして、今まで鳴りを潜めていた第三の勢力が、歴史の裏舞台で蠢動をはじめる……

 「銀英伝」の大きなテーマとして、専制政治と民主政治の対立があげられるだろう。ここまで読んでいて(これを記している時点で、9巻を読み終えており、そこまでを含めても)気づいたことがある。

 ヤンは、専制政治と民主政治、両方の長所と短所を思って、逡巡しつつも、民主主義の側に立っている。一方、ラインハルトは、専制政治の側に立って、微動だにしない。ラインハルトは、自らの政治的な選択を後悔することはあっても、それを専制政治自体の問題点と結び付けることはない。

 こういったそれぞれの「矜持」(「信念」という言葉はヤンが嫌うらしいので)が、この物語における2人の主人公の、最も際立った違いなのかもしれない。

 「皇帝ラインハルト陛下、わしはあなたの才能と器量を高く評価しているつもりだ。孫をもつなら、あなたのような人物をもちたいものだ。だが、あなたの臣下にはなれん。ヤン・ウェンリーも、あなたの友人にはなれるが、やはり臣下にはなれん。他人ごとだが保証してもよいくらいさ。なぜなら、えらそうに言わせてもらえば、民主主義とは対等の友人をつくる思想であって、主従をつくる思想ではないからだ。わしはよい友人がほしいし、誰かにとってよい友人でありたいと思う。だが、よい主君もよい臣下ももちたいとは思わない。だからこそ、あなたとおなじ旗をあおぐことはできなかったのだ。御厚意には感謝するが、いまさらあなたにこの老体は必要あるまい……民主主義に乾杯!」(ビュコック)

 「たぶん人間は自分で考えているよりもはるかに卑劣なことができるのだと思います。平和で順境にあれば、そんな自分自身を再発見せずにすむのでしょうけど……」(ヒルダ)

 吾々は軍人だ。そして民主共和政体とは、しばしば銃口から生まれる。軍事力は民主政治を産みおとしながら、その功績を誇ることは許されない。それは不公正なことではない。なぜなら民主主義とは力をもった者の自制にこそ精髄があるからだ。強者の自制を法律と機構によって制度化したのが民主主義なのだ。そして軍隊が自制しなければ、誰にも自制の必要などない。自分たち自身を基本的には否定する政治体制のために戦う。その矛盾した構造を、民主主義の軍隊は受容しなくてはならない。軍隊が政府に要求してよいのは、せいぜい年金と有給休暇をよこせ、というくらいさ。つまり労働者としての権利。それ以上はけっして許されない」(ヤン) 

銀河英雄伝説〈7〉怒涛篇 (創元SF文庫)

銀河英雄伝説〈7〉怒涛篇 (創元SF文庫)

 

8冊目 銀河英雄伝説6〜飛翔篇

田中芳樹 著『銀河英雄伝説6〜飛翔篇』読了

本巻の主要トピック

・キュンメル事件

・地球教本部壊滅

・ヤンの不正逮捕(反和平活動違反疑い)〜ハイネセン脱出

・エル・ファシル独立宣言

  新生銀河帝国の宇宙統一により、しばらくは平和が保たれるかにみえた。が、様々な思惑がはたらいて、再び戦火は燃え広がろうとしていた。「人々は戦乱に疲れていたはずであった――しかし、あるいはそれ以上に、平和になれていなかったのである。」銀河の歴史はさらに加速する。

 「せっかく軍隊という牢獄から脱出しながら、結婚というべつの牢獄に志願してはいるとは、あなたも物ずきな人ですな」

「独身生活一〇年でさとりえぬことが、一週間の結婚生活でさとれるものさ。よき哲学者の誕生をきたいしよう」(シーンコップ&キャゼルヌ)

 「吾々は敵の堕落を歓迎し、それどころか促進すらしなくてはならない。情けない話じゃないか。政治とか軍事とかが悪魔の管轄に属することだとよくわかるよ。で、それを見て神は楽しむんだろうな」(ヤン)

 「戦争の九〇パーセントまでは、後世の人々があきれるような愚かな理由でおこった。残る一〇パーセントは、当時の人々でさえあきれるような、より愚かな理由でおこった……」(ヤン)

 「ヤン提督もお気の毒に。せっかく軍隊を離れて、花嫁と年金で両手に花というはずだったのにな」

「花園は盗賊に荒らされるものだし、美しい花は独占してよいものではないさ」

「あら、ありがとうございます。でも、私は独占されたいと思っているんですけど」(アッテンボロー&シェーンコップ&フレデリカ)

「何か最後の望みはおありですか、閣下」

「そうだね、ぜひ宇宙暦八七〇年ものの白ワインを飲んでから死にたい」

 たっぷり五秒ほど、大尉はヤンの言葉の意味を吟味していた。ようやく理解すると、腹をたてたような表情になる。この年はまだ七九九年なのである。

 余談だが、こうして各巻ごとに、印象に残った部分の引用をしていると、同盟側の引用ばかりが目立つ。「銀英伝」を、帝国と同盟、あるいはフェザーン、どの勢力に移入して読むかは、読者の自由だろう。こうしてみると私は、思っていた以上に同盟側への思い入れが強いらしい。帝国にも魅力的な人物は多いけれど、皮肉めいたユーモアで語られるヤン一党の会話は、とても心地よい。きっと著者も、書いていて楽しかったんじゃないだろうか。シェーンコップがとくに、ピリリといい味出してます。

銀河英雄伝説〈6〉飛翔篇 (創元SF文庫)

銀河英雄伝説〈6〉飛翔篇 (創元SF文庫)