何冊よめるかな?

本棚の肥やしと化した本たちを供養するため始めたブログ

3冊目 銀河英雄伝説3〜雌伏篇

銀河英雄伝説3〜雌伏篇』 田中芳樹 著、読了

 本巻の主要トピック

・イゼルローン回廊遭遇戦(ユリアンの初陣)

・ヤン、査問会議にかけられる

・第8次イゼルローン攻防戦(ガイエスブルグ要塞ワープアウト) 

  相変わらず、とてもおもしろい。読んでいる間、ずーっとエンターテインされている感じ。ありきたりな感想だが、こんな物語を記せるなんて、著者の頭はどうなっているのだろう。とつい思ってしまう。歴史に造詣が深いということは、読んでいてひしひしと感じる。近年、私も歴史に興味を持つようになったから、そういう面白さも加わって、以前にもまして、この物語りに没入できるようになった気がする。

「三〇歳をすぎて独身だなんて、許しがたい反社会的行為だと思わんか」

「生涯、独身で社会に貢献した人物はいくらでもいますよ。四、五〇〇人リストアップしてみましょうか」

「おれは、家庭をもったうえに社会に貢献した人間を、もっと多く知っているよ」(キャゼルヌ、ヤン)

「……国防には二種類の途がある。相手国より強大な軍備を保有することが、その一であり、その二は、平和的手段によって相手国を“無害”化することである。前者は単純で、しかも権力者にとって魅力的な方法であるが、軍備の増強が経済発展と反比例の関係にあることは、近代社会が形成されて以来の法則である。自国の軍備増強は、相手国においても同様の事態をまねき、ついには、経済と社会のいちじるしい軍備偏重の畸型化が極限に達し、国家そのものが崩壊する。こうして、国防の意思が国家を滅亡させるという、歴史上、普遍的なアイロニーが生まれる……(中略)……古来、多くの国が外敵の侵略によって滅亡したといわれる。しかし、ここで注意すべきは、より多くの国が、侵略に対する反撃、富の分配の不公平、権力機構の腐敗、言論・思想の弾圧にたいする国民の不満などの内的要因によって滅亡した、という事実である。社会的不公平を放置して、いたずらに軍備を増強し、その力を、内にたいしては国民の弾圧、外にたいしては侵略というかたちで濫用するとき、その国は滅亡への途上にある。これは歴史上、証明可能な事実である。近代国家の成立以降、不法な侵略行為は、侵略された側でなく、じつに侵略した側の敗北と滅亡を、かならずまねいている。侵略は道義以前に、成功率のうえからもさけるべきものである……」(ヤンの著述)

「いいか、柄にもないことを考えるな。国をまもろうなんて、よけいなことを考えるな!片思いの、きれいなあの娘のことだけを考えろ。生きてあの娘の笑顔を見たいと願え。そうすりゃ嫉み深い神さまにはきらわれても、気のいい悪魔がまもってくれる。わかったか!」(ポプラン)

「権力は一代かぎりのもので、それは譲られるべきものではない、奪われるべきものだ(中略)私の跡を継ぐのは、私とおなじか、それ以上の能力をもつ人間だ。そして、それは、なにも私が死んだあととはかぎらない……」(ラインハルト)

「ホットパンチをつくりましょう。ワインに蜂蜜とレモンをいれて、お湯で割って。風邪にはいちばんですよ」

「蜂蜜とレモンとお湯を抜いてくれ」

「だめです!」

「たいしたちがいはないじゃないか」

「じゃ、いっそ、ワインを抜きましょうね」(ユリアン、ヤン)

銀河英雄伝説〈3〉雌伏篇 (創元SF文庫)

銀河英雄伝説〈3〉雌伏篇 (創元SF文庫)

 

2冊目 銀河英雄伝説2〜野望篇

銀河英雄伝説2〜野望篇』 田中芳樹 著、読了。

 本書の主要トピック

・帝国の内戦(リップシュタット戦役)

・同盟のクーデター(ドーリア星域会戦など)

・ラインハルト帝国宰相に(実質的な独裁体制を確立)

 そしてもうひとつ、この巻の中で「銀英伝」という長大な物語の中でも、最も重要なエピソードの一つが描かれる。だが、それについては触れないでおくことにする。

 私は、いわゆるネタバレが気にならない人間だ。だが、「銀英伝」については、少しの後悔がある。私が、初めて「銀英伝」を観ていた時期に、某ネットラジオで、あるエピソードについて、ネタバレをされてしまった。それでも、私にとって、「銀英伝」は最高に面白いアニメ作品となったのだが、もし、そのエピソードについて、何も知らずに観ることができていたら、もっと大きな衝撃を受けていたに違いない。世の中で、ネタバレを嫌がるひとたちの気持ちが、とてもよく理解できた。

 そんなわけで、この巻の中で描かれるエピソードについても、触れないでおく。もし、仮に、万が一、ありえないことだけど、何かの間違いで、「銀英伝」にまだ触れたことがないひとが、この銀河の中にいた場合、そのひとが初めて触れたときのことを配慮して。

 

「もうすぐ戦いが始まる。ろくでもない戦いだが、それだけに勝たなくては意味がない。(中略)かかっているものは、たかだか国家の存亡だ。個人の自由と権利に比べれば、たいした価値のあるものじゃない……それでは、みんな、そろそろ始めるとしようか」(ヤン)

 

「政治の腐敗とは、政治家が賄賂をとることじゃない。それは個人の腐敗であるにすぎない。政治家が賄賂をとってもそれを批判することができない状態を、政治の腐敗というんだ。」(ヤン)

 

「そして、当分はおたがい会わないようにしましょう」

「姉上!」(中略)

「疲れたら、わたしのところへいらっしゃい。でも、まだあなたは疲れてはいけません」(ラインハルト、アンネローゼ)

銀河英雄伝説〈2〉野望篇 (創元SF文庫)

銀河英雄伝説〈2〉野望篇 (創元SF文庫)

 

1冊目 銀河英雄伝説1〜黎明編

 『銀河英雄伝説1〜黎明編』  田中芳樹 著、読了

 今年は読書に時間を割こうと思う。目標は、1週間に1冊。年間、約50冊だ。

 今年の1冊目は何にしようかと考えていたら、今年、いよいよ「銀英伝」のアニメの新版が放映されることを思い出した。ならば、その前に原作を読んでおきたい。

 原作を読むのは初めてではない。私が「銀英伝」に初めて触れたのは、4〜5年前のこと。旧アニメ版を観た。そのあまりの面白さに衝撃を受け、その後、直ぐに原作(本伝 全10巻)を購入した。だが、今までに全巻は読了できずにいた。

 小説版が面白くなかったから、途中で読むのを止めてしまったわけでは、決してない。当時、私は複数の本を同時に読む習慣があった。そのため、4巻くらいまで読み進めながらも、他の本にも取り組んでいるうちに、だんだん間が開くようになる。すると、頭の良すぎる私は、ストーリーを直ぐに忘れてしまい、途中から再開するということができずに、断念する。そういうパターンを繰り返していたに過ぎない。

 そんな心残りをずっと抱えていたことだし、新アニメ版が放映されるこの機に、原作を全部読み通しておきたいと思い、本書を手に取った。(近年は、同時並行読みを止めているので、今回は読み通せると思う)

 ちなみに、道原かつみ版、藤崎竜版のコミカライズ作品も、いずれも途中までだが、読んだ。アニメは、その後、本伝110話を2回、通して観た。演劇やミュージカル版などの実写版には触れたことがない。

第1巻の主なトピックは、以下の通り。

アスターテ会戦

・同盟軍によるイゼルローン奪取

・アムリッツァ会戦

 物語の内容はおろか、本作品の魅力さえ、もはや説明する必要はないだろう。もし未見の方がいたら、何はともあれ「必見です!」とだけ言っておきたい。

 今はただ、新アニメ版がどうなるか、ということだけが関心事だ。私にとって、旧アニメ版を観る上での、大きな楽しみのひとつに、ヤン一党が交わす、皮肉とユーモアに満ちた会話があった。彼らの間に醸し出される、温かい雰囲気は、新版ではどのように表現されるのだろう。今回、本書を読んでいても、登場人物の姿や台詞は、自然と、旧アニメ版の容姿や声で再現されている。それくらい、原作に馴染んだ旧作を踏まえて、現代のクリエイターたちが、本作をどのように描くのか、とても楽しみだ。

恒久平和なんて人類の歴史上なかった。だから私はそんなもののぞみはしない。だが何十年かの平和でゆたかな時代は存在できた。吾々がつぎの世代になにか遺産を託さなくてはならないとするなら、やはり平和がいちばんだ。そして前の世代から手わたされた平和を維持するのは、つぎの世代の責任だ。それぞれの世代が、のちの世代への責任を忘れないでいれば、結果として長期間の平和がたもてるだろう。(中略)要するに私の希望は、たかだかこのさき何十年かの平和なんだ。(中略)私の家に一四歳の男の子がいるが、その子が戦場にひきだされるのを見たくない。そういうことだ」(ヤン)

「中尉…私はすこし歴史を学んだ。それで知ったのだが、人間の社会には思想の潮流が二つあるんだ。生命以上の価値が存在する、という説と、生命に優るものはない、という説とだ。人は戦いをはじめるとき前者を口実にし、戦いをやめるとき後者を理由にする。それを何百年、何千年もつづけてきた…」(ヤン) 

銀河英雄伝説 1 黎明編 (創元SF文庫)

銀河英雄伝説 1 黎明編 (創元SF文庫)

 

 

来年の目標

 今年も今日でおしまい。振り返ると、今年は試練の年だった。姉が発病し、私自身もまぁまぁの病をした。でも、仕事の上で、新たに向かうべき方向を発見できた年でもあった。来年は日本経済もよくなりそうだし、いい年になりますように。

 当ブログを振り返ってみると、今年1年間に読んだ本は27冊。うーん、ちょっと少ない。原因は、スマホゲーにハマりすぎということに尽きる。来年はもうちょっと、読書に重心をおくことにしよう。以前、年間100冊読む、と目標をたてて読んだときは、追われるように読んだため、読書そのものをあまり味わえなかった。その反省も踏まえて、僕の読書力として適当なペースは、一週間に一冊くらいだろうか。そんなわけで、年間50冊を目標に、このブログもひっそりと続けていきたい。

27冊目 アップデートする仏教

『アップデートする仏教』 藤田一照 山下良道 共著、読了

 私は、特別な信仰は持っていない。けれど、宗教、中でも仏教には少なからず興味がある。特に原始仏教については、最新の宇宙物理学や脳科学に通じるところがあるようで、ことさら関心がある。そんなわけで、関心のおもむくままに、本書を手に取った。

  本書は、2人の曹洞宗の僧侶の対談を書籍化したものだ。その趣旨は、日本の伝統的な仏教を、タイトル通り、そろそろアップデートしませんか、という提案だ。

  著者らは、仏教には3つの異なるヴァージョンが存在すると言う。

  1つめは「仏教1.0」で、これは日本の伝統的な仏教を指す。すでに形骸化し、実質的な意味を失っているように見える、という特徴を持っている。

「仏教1.0」の状況を喩えて言うと、病で苦しむ人が山ほどいて、「病院」という看板のかかった場所もたくさんあって、そこには医者や看護師もいる。だけど、病人のほうは医学が自分の病気を治してくれるとは思っていないし、医者や看護師もそれを信じてはいない。でも病人は病院に出入りしている。そこで何をしているかといえば、庭で紫陽花の花を見たり、食堂でヴェジタリアンの食事をしたり、病室で宿泊したりしている。でも、医療行為だけは行われていない。こういう不思議な状況が日本の仏教の現状なんじゃないですかね。

 2つめは「仏教2.0」で、これは最近日本に定着しつつある、外来の仏教(著者らは主にテーラワーダ仏教を念頭に置いている)を指す。仏教を問題解決の方法として提示し、その具体的なメソッドを持つ、という特徴がある。先ほどの病院の喩えでいくと、「きちんと医療が行われている病院」ということになる。

 3つめは「仏教3.0」で、これこそ目指すべき仏教の姿を指す。しかし、これは著者らが新たに作り上げたものではなく、「実はブッダ道元がもともと説いていたことに他ならない」という。

「仏教1.0」は当然として、「仏教2.0」にも問題があり、これらは「仏教3.0」にアップデートされなければならない。なぜ、著者らがそう考えるに至ったのかを、自身らの歩んできた道程を語ることを通じて、伝えようとする一冊だ。

 後半は、ちょっと、駆け足気味に読んだため、「仏教2.0」の問題点が、いまいち把握できていないのだけれど、「仏教2.0」のメソッドでは、「シンキング・マインド」や「お猿さん」で例えられる「私」を脱却できない、というふうに読んだ。でも、著者(山下良道)は、「仏教2.0」の修行を通じて、「仏教3.0」に開眼したわけで、つまり、「仏教2.0」に根本的な問題があるというわけではないんじゃないの?全面的にアップデートしなくても、「仏教2.1」とかじゃダメなの?と混乱してしまった。

 でも、全体的にはとても興味深く、こういう仏教だったら実践してみたい(仏教は信仰するものではなく、実践するもののようだ)と思った。

アップデートする仏教 (幻冬舎新書)

アップデートする仏教 (幻冬舎新書)

26冊目 やさしい人物画

『やさしい人物画』 A.ルーミス 著、読了

 絵が描けるひと、楽器を演奏できるひとをうらやましいと思う。私もいつか、絵が描ける人間になれたらいいなと思う。絵画のモチーフにもいろいろあるだろうけど、私は、やはり「人間」を描いたものが好きだし、実際、自分でも描きたいと思う。本書は、人物画の入門書の中でも、名著と呼ばれている一冊らしい。そんなわけで本書を手に取った。

 絵を描いたり、楽器を演奏したり、およそ芸術的な営みって、個人の才能/センスによるところが大きい。そう思っていたし、実際、天才的なひとは存在する。でも、「芸術」の「術」は「技術」の「術」だ。テクニック。技。それは学べるはずだし、実際、知識として伝承されてきたはずだ。

 本書は、人物を描くに当たって、どんなところに注目すべきか、ということを丁寧に解説してくれている。こうすれば不自然じゃなくなるよ、という方法論もたくさんあって、さすが名著と呼ばれるだけのことはある、と思った。

 ただ、繰り返し強調されていたのは、基本的なことだったところが印象的だった。それはつまり、ただセンスがあれば、絵がうまくなれるわけではない、ってことなのかもしれない。

 常に基本に忠実であれ。それは、どんな分野にも言えること。王道。そういうことの重みが、身に沁みる年頃になってきたし、実際、もうオジサンといってもいい年齢なのである。

やさしい人物画

やさしい人物画

 

 

25冊目 アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(Kindle版) F・K・ディック 著 / 浅倉久志 訳、読了

 『ブレードランナー2049』を観に行くに当り、『ブレードランナー』(ファイナルカット版)を復習していたのだが、やはり私にとっては、少し難しい映画だった。ひとつのシーンに対する解釈が多様で、ボーッと観ていては、容易に置いて行かれていしまう。それはさながら哲学書を読んでいるときのようだ。

 そんなわけで、映画だけでは歯が立たないので、原作を読むことで、映画を補完してみようと思い、本書を手に取った。本当は『2049』を観に行く前に読み終えたかったが、映画館には行けるタイミングに行っておかなくては、ということで本書の読了の方が遅れてしまった。残念。

 本書を読んで、一番感じたのは、原作は、映画版とは大きく異なるということだった。例えば、映画版では主人公デッカードは、一人暮らしをしているが、原作では夫婦である。レイチェルの人物像も映画版とは大きく異なるし、ストーリーもかなり違っている。最大の違いは、「異世界環境下でも作業できる人型(ヒューマノイド)ロボット」のことを、「レプリカント」ではなく、「アンドロイド」と表記していることだろう。

 デッカードが、人間かアンドロイドか曖昧になる部分は、映画『フライトプラン』のように、デッカードが正しいのか、デッカード以外の人びとが正しいのか、読者にもわからなくなるサスペンスな展開で、読んでいてクラクラした。

 映画を観ているだけでは、人間以外の生物が、事実上滅んだ世界が舞台であることなどを、いまいち掴めていなかったが、そのように原作を読むことで補完できるところもあった。ただ、今回の読書では、やはり映画版との違いのほうが、際立って感じられた。

 例えば、見た目も、栄養価も、味も本物のリンゴと少しも変わらない、ただし科学技術によって作り出された、人造のリンゴがあったとしよう。それを「リンゴ」だと言っていいだろうか?少なくとも、「人造リンゴ」と銘打ってなければ、我々には気づけないくらい精巧なもので、食べても、リンゴを食べたのと、寸分たがわぬ生理学的影響を与えるものだとしたら…。リンゴとそれの違いはあるのだろうか?それがリンゴではなく、人間だったら?工場で生産されたそれは、人間と寸分たがわぬ姿かたちをし、能力的にも等しい。何もかも人間と違わない。ただ出自だけが異なる。それは人間と思っていいだろうか?その辺のところが、映画にも共通するテーマだと感じた。

 少しでもわかりにくいと視聴率が取れないため、わかりやすさを至上とする昨今、繰り返しの鑑賞に耐え、鑑賞する度に味わいが増す骨太な作品は、それだけでありがたい。もっともっとブレランを摂取して、より深いところまで潜れるようになりたいと思う。

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

 

ブレードランナー2049

ブレードランナー2049』 ドゥニ・ヴィルヌーヴ 監督を観た。

 私が年間、映画館に足を運ぶのは、ほんの数回程度でしかない。だが、本作は劇場で観ないわけにはいかんでしょう!! 

 とはいえ、私は「ブレラン上級者」というわけではない。前作はまだ4回しか観てないし、その何れもファイナルカット版だった。『ブレードランナー』の奥深い世界を味わうには、まだまだ長い道のりを要する「ブレラン初心者」である。

 どちらかと言うと、『GHOST IN THE SHELL』や『AKIRA』に親しみ、その先祖としての『ブレードランナー』に敬意を抱いているという方が、今回、劇場に足を運ぼうと思った正しい動機だろう。

 そんな初心者の私だから、的を射たものになるわけはないが、初めて観たフレッシュな感想を書き残しておこうと思う。

 私はネタバレを嫌う方ではない。ネタバレをされても、いい映画なら何度でも鑑賞に耐えられると思っているからだ。でも、『ブレードランナー2049』に関しては、珍しく何の事前情報も入れずにいた。どれくらい何も知らない状態だったかというと、映画館に入るとき、ロビーに貼ってあるポスターを観て、初めてR.ゴズリングが主演っぽいこと、H.フォードが出演するらしいことを知ったくらいだ。

 ブレランを一言でまとめるほど、罰当たりな所業はない。とは知りつつ、敢えて一言でいうと、前作は「人間だと思っていたのにレプリカントだったのかも知れない」というのが主題だったとすると、本作は「レプリカントだと思っていたのに人間だったのかも知れない」という、反転した主題を描いているのだと思った。その後、幾つかの『ブレラン2049』評を見聞きするにつけ、この解釈はあまり筋がよくないことがわかったが、とにかく、初めての映画体験では、そのような誤解をしていたことを、ここに記しておきたい。

 ただ、本作の主題はこれだけではない、というか、割りと早い段階で「レプリカントか人間か」という主題だけが、物語を駆動するエンジンではないことがわかった。ジョイ、ラブ、デッカードなど、主人公以外の登場人物にも、それぞれ主題があり、それぞれがエンジンとして物語を駆動する役割を持っている。つまり、これは主人公Kだけの物語ではなく、複数の登場人物を照らしだす物語だ。

 それ故、およそ3時間の超大作だが、弛んだところはなく、前作への敬意がふんだんに感じられた。本作の賛否は大きく分れていると聞くが、私は賛の側だった。前作も含め、ブレランを、繰り返しくりかえし観たいと思えたのだから。

 

24冊目 がん 生と死の謎に挑む

『がん 生と死の謎に挑む』 立花隆 NHKスペシャル取材班 著、読了

 今や日本人のふたりに一人が罹患するという病気、がん。母も2年前に患った。そんな身近な病気について知りたいと思い、本書を手に取った。

 読み終わったのは、約2ヶ月前。読み終えて、最も勉強になったのは、「がんは自分自身だ」ということだった。それまでは、がんに対して、細胞が不良化して、「病気として」患者の身体に存在する、という認識を持っていた。しかし、本書によれば、いかに不良化してもがんは飽くまで「自分として」患者の中にいる。ちょっと大づかみな理解だが、そう理解したほうが、がんという病気に対する認識は正しいものになると思った。

 がんが生じるメカニズムは、本当のところよくわかっていないのが現状だ。本書はそこから始まる。例えば正常な細胞が、がん細胞に変化するスイッチがあるとする。一つのボタンを押せばがん化する。それならわかりやすい。でも実際は、数万のスイッチがあり、どれか一つを押しただけではがん化しない。数万のスイッチの中から、特定のスイッチだけを選んで、順番通りに押さなければがん細胞は生まれない。それは複雑すぎて、今のところ、がん化するメカニズムの全貌は明らかにされていない。めちゃくちゃ複雑なメカニズムに基いているということが、ようやくわかってきた段階だという。

 メカニズムが判明したとして、がんを撲滅できるか。それも難しいという。がんが生じるメカニズムの一つに発がん遺伝子がある。(がんは遺伝子の病気であるというのが本書の一つのテーマでもある)発がん遺伝子は、これまでに何種類も特定されてはいる。だが、それは細胞をがん化するためだけの悪魔のような存在ではない。

がん遺伝子と呼ばれるものの多くが、生命体の初期発生過程や、細胞活動の最も基礎的な過程に不可欠の役割を果たしている。

 例えば、「 HIF-1」という遺伝子が取り上げられている。HIF-1は、発がん遺伝子のひとつだ。では、この遺伝子を持たなければ、がんは防げるかもしれない。そう考えるのは自然なことだと思う。そこで、実験的にHIF-1を持たないマウスを作ってみると、このマウスは胎児(胎マウス?)のうちに死んでしまい、生まれることができないらしい。HIF-1は低酸素状態になると発現する遺伝子であり、これは生物が進化する過程で、地球にときどき起きた、とんでもない低酸素状態を生き抜くために獲得したものだという。そのため、HIF-1の発現をきっかけに、その他の生命にとって重要な遺伝子が、次々と発現する。だから、HIF-1を持たないマウスは、生命としてのきっかけを与えられなかったマウスだということになる。そして、もちろん、ヒトもHIF-1を持っている。

 つまり、ヒトが生きるためには、発がん遺伝子が不可欠である。そして、発がん遺伝子を持つがゆえに、ヒトはがんになる。筋肉を鍛えれば、筋線維が肥大化するのと同じように、生きていれば、細胞ががん化する。それを阻止しようとするのは、とても難しい。 

生きることそれ自体ががん遺伝子のおかげという側面があるのだ。

 他にも、がんのイメージを一新させる知見がたくさん記されていた。(例えば、「がん」は、一種類のがん細胞の塊ではなく、複数のがん細胞から成るキメラであるetc)また、抗がん剤の是非や民間療法についても言及されており、この身近な病気について、冷静な観点から見つめ直す姿勢が随所に感じられた。科学的態度とはこういうことを言うのだろうな、と感心させられた一冊だった。

がん 生と死の謎に挑む (文春文庫)

がん 生と死の謎に挑む (文春文庫)

 

リリーのすべて

リリーのすべてトム・フーパー監督、観了。

 世界で初めて性別適合手術を受けた、リリー・エルベを描いた映画。学友の紹介で本作を観る運びとなった。

美しい映画だった。

 昔、長距離バスに乗っているとき、ふと「女と死体。男にとってより近しいのはどちらか?」という散文めいたものが降ってきたことがあった。この映画を観て、そんなエピソードを思い出した。併せて、独りでいるときよりも、二人でいるときの方が孤独が深まる時がある。それに似た逆説を思った。心が女性である男性は、身も心も男性である男性に比べて、死体よりも女性に近い存在に思える。しかし、女性に近い分、より自分が女性から遠い存在に感じられるのではないか。そんなリリーの心の内を想像した。

本作は、しかし、アイナー・ヴェイナー(リリー・エルベ)の物語である以上に、アイナーの妻、ゲルダ・ヴェイナーの物語であったと感じた。

 アイナーが男性と女性の役割を曖昧にする存在だとしたら、ゲルダは妻(家庭)と画家(社会)の役割を曖昧にする存在だと思えた。画家としてパッとしなかったゲルダは、リリーをモデルに描くことで、画家として成功を収める。しかし、リリーを招く度に、夫の中からアイナーが失われてゆく。

芸術家は、既成の価値観に揺さぶりをかける役割を担っていると思う。アイナーは鏡に写ったリリーの美しさによって、ゲルダは女装したアイナーを美しく描くことによって、「男と女」、「家庭と社会」という線引きに揺さぶりをかけた。「美」をエンジンとして既成の価値観を突き崩す。それは画家として、とても正しいことなのではないか。

さらに、ゲルダは、アイナーが失われてゆくことに戸惑いながらも、愛するアイナーのために、リリーを支える。その人を丸ごと受け入れること。その意味でも美しい映画だった。

 本作はまた、デンマークコペンハーゲンから始まるが、アイナーとゲルダが暮らす部屋の撮り方が、同じくデンマークの作家、V.ハンマースホイの絵のようで、絵的にも美しい映画だった。

リリーのすべて (吹替版)
 

  ちなみに私が観たのは吹き替え版である。Amazonビデオでは、吹き替えと字幕は別のタイトル扱いになる。私は、10年位前から、吹き替え派になったになったので、まずは吹替版から観ることにした。