何冊よめるかな?

本棚の肥やしと化した本たちを供養するため始めたブログ

24冊目 がん 生と死の謎に挑む

『がん 生と死の謎に挑む』 立花隆 NHKスペシャル取材班 著、読了

 今や日本人のふたりに一人が罹患するという病気、がん。母も2年前に患った。そんな身近な病気について知りたいと思い、本書を手に取った。

 読み終わったのは、約2ヶ月前。読み終えて、最も勉強になったのは、「がんは自分自身だ」ということだった。それまでは、がんに対して、細胞が不良化して、「病気として」患者の身体に存在する、という認識を持っていた。しかし、本書によれば、いかに不良化してもがんは飽くまで「自分として」患者の中にいる。ちょっと大づかみな理解だが、そう理解したほうが、がんという病気に対する認識は正しいものになると思った。

 がんが生じるメカニズムは、本当のところよくわかっていないのが現状だ。本書はそこから始まる。例えば正常な細胞が、がん細胞に変化するスイッチがあるとする。一つのボタンを押せばがん化する。それならわかりやすい。でも実際は、数万のスイッチがあり、どれか一つを押しただけではがん化しない。数万のスイッチの中から、特定のスイッチだけを選んで、順番通りに押さなければがん細胞は生まれない。それは複雑すぎて、今のところ、がん化するメカニズムの全貌は明らかにされていない。めちゃくちゃ複雑なメカニズムに基いているということが、ようやくわかってきた段階だという。

 メカニズムが判明したとして、がんを撲滅できるか。それも難しいという。がんが生じるメカニズムの一つに発がん遺伝子がある。(がんは遺伝子の病気であるというのが本書の一つのテーマでもある)発がん遺伝子は、これまでに何種類も特定されてはいる。だが、それは細胞をがん化するためだけの悪魔のような存在ではない。

がん遺伝子と呼ばれるものの多くが、生命体の初期発生過程や、細胞活動の最も基礎的な過程に不可欠の役割を果たしている。

 例えば、「 HIF-1」という遺伝子が取り上げられている。HIF-1は、発がん遺伝子のひとつだ。では、この遺伝子を持たなければ、がんは防げるかもしれない。そう考えるのは自然なことだと思う。そこで、実験的にHIF-1を持たないマウスを作ってみると、このマウスは胎児(胎マウス?)のうちに死んでしまい、生まれることができないらしい。HIF-1は低酸素状態になると発現する遺伝子であり、これは生物が進化する過程で、地球にときどき起きた、とんでもない低酸素状態を生き抜くために獲得したものだという。そのため、HIF-1の発現をきっかけに、その他の生命にとって重要な遺伝子が、次々と発現する。だから、HIF-1を持たないマウスは、生命としてのきっかけを与えられなかったマウスだということになる。そして、もちろん、ヒトもHIF-1を持っている。

 つまり、ヒトが生きるためには、発がん遺伝子が不可欠である。そして、発がん遺伝子を持つがゆえに、ヒトはがんになる。筋肉を鍛えれば、筋線維が肥大化するのと同じように、生きていれば、細胞ががん化する。それを阻止しようとするのは、とても難しい。 

生きることそれ自体ががん遺伝子のおかげという側面があるのだ。

 他にも、がんのイメージを一新させる知見がたくさん記されていた。(例えば、「がん」は、一種類のがん細胞の塊ではなく、複数のがん細胞から成るキメラであるetc)また、抗がん剤の是非や民間療法についても言及されており、この身近な病気について、冷静な観点から見つめ直す姿勢が随所に感じられた。科学的態度とはこういうことを言うのだろうな、と感心させられた一冊だった。

がん 生と死の謎に挑む (文春文庫)

がん 生と死の謎に挑む (文春文庫)

 

リリーのすべて

リリーのすべてトム・フーパー監督、観了。

 世界で初めて性別適合手術を受けた、リリー・エルベを描いた映画。学友の紹介で本作を観る運びとなった。

美しい映画だった。

 昔、長距離バスに乗っているとき、ふと「女と死体。男にとってより近しいのはどちらか?」という散文めいたものが降ってきたことがあった。この映画を観て、そんなエピソードを思い出した。併せて、独りでいるときよりも、二人でいるときの方が孤独が深まる時がある。それに似た逆説を思った。心が女性である男性は、身も心も男性である男性に比べて、死体よりも女性に近い存在に思える。しかし、女性に近い分、より自分が女性から遠い存在に感じられるのではないか。そんなリリーの心の内を想像した。

本作は、しかし、アイナー・ヴェイナー(リリー・エルベ)の物語である以上に、アイナーの妻、ゲルダ・ヴェイナーの物語であったと感じた。

 アイナーが男性と女性の役割を曖昧にする存在だとしたら、ゲルダは妻(家庭)と画家(社会)の役割を曖昧にする存在だと思えた。画家としてパッとしなかったゲルダは、リリーをモデルに描くことで、画家として成功を収める。しかし、リリーを招く度に、夫の中からアイナーが失われてゆく。

芸術家は、既成の価値観に揺さぶりをかける役割を担っていると思う。アイナーは鏡に写ったリリーの美しさによって、ゲルダは女装したアイナーを美しく描くことによって、「男と女」、「家庭と社会」という線引きに揺さぶりをかけた。「美」をエンジンとして既成の価値観を突き崩す。それは画家として、とても正しいことなのではないか。

さらに、ゲルダは、アイナーが失われてゆくことに戸惑いながらも、愛するアイナーのために、リリーを支える。その人を丸ごと受け入れること。その意味でも美しい映画だった。

 本作はまた、デンマークコペンハーゲンから始まるが、アイナーとゲルダが暮らす部屋の撮り方が、同じくデンマークの作家、V.ハンマースホイの絵のようで、絵的にも美しい映画だった。

リリーのすべて (吹替版)
 

  ちなみに私が観たのは吹き替え版である。Amazonビデオでは、吹き替えと字幕は別のタイトル扱いになる。私は、10年位前から、吹き替え派になったになったので、まずは吹替版から観ることにした。

 

23冊目 教団X

『教団X』 中村文則 著、読了。

 もう3年くらい前だろうか、ラジオの中で鈴木敏夫が本書のことを絶賛していた。それ以来、興味を持っていた。その後も、西加奈子又吉直樹若林正恭らが本書を賞賛しているのを知るにつけ、いつか文庫化したら読もうと思っていた。(だってハードカバーは高価だからねっ(ToT))そんな思いを口にしていたら、ありがたいことに友人がプレゼントしてくれた。(しかもハードカバー版の新品を!)

 本書を読み終えたのは3ヶ月以上前のことなので、感想もおぼろげになりつつあるが、思い出すことができる、当時の最もはっきりとした感想は、「感想を述べるのが難しい」というものだ。面白い・面白くないの単純な二択で迫られれば、私は間違いなく前者に丸をつけるだろう。でも、この本の感想が難しいのは、これは「小説なのか?」という疑問、というかシコリのようなものが残ったからだ。

 それで気になって鈴木敏夫のラジオを改めて聴き直してみたら、やはり私と同じような感想を持った人が少なからずいるらしかった。それに対して著者は(その回にはゲストとして著者が出演していた)、「技術的にはどんな風にも書けるが、あえて小説の枠をはみ出してもいいと思った」という主旨の発言をしていた。私はそういうパンクな精神を好む質ではある。しかし、たまたま同時期に読んでいた(完読していないのでここに感想は記せないが)、大江健三郎万延元年のフットボール』の、あまりにも文学然とした文体の方に、ゾクゾクするほどの快感を覚えたのは確かだ。「ああ!小説を読んでいる!」という充実感に満たされたのは確かだ。

一方、中村は、およそ小説らしからぬ文体を、本書では敢えて選んだということだが、それが成功だったのか、失敗だったのか、評価が別れるところだろう。私は、「何か新書っぽいな」と感じたのだが、それが「小説を超えた表現」への戸惑いだったのか「単なる新書の劣化版」への落胆だったのか、未だにわからない。

 ところで、本書は言ってみれば「宗教×脳科学×素粒子物理学(宇宙論)×自己論」をテーマとした小説だ。これらは、その一つひとつを取り上げてみても、眠れなくなるほどワクワクできる深遠なテーマに違いない。まして、それらをかけ合わせたら、私たちの世界観を根底から揺るがすような作品が出現するかもしれない。実際、「自意識×革命×宇宙論」という、本書と同じようなテーマを掲げた、埴谷雄高の『死靈』は、人間のみならず、現宇宙に存在するすべての存在形式の革命を目指した小説である。それでは、これらのテーマを扱うことで、本書は何を目指しただろうか。あとがきに著者の思いが綴られている。

 世界と人間を全体から捉えようとしながら、個々の人間の心理の奥の奥まで書こうとする小説。

 埴谷の『死靈』が「非現実」を舞台にすることで、現宇宙を超えた世界を志向したのに対し、本書は「現実の/現時点の世界」を舞台に、それを全体から捉えることを志向したもののようだ。その点、埴谷と同様のテーマを掲げつつも、本書の到達点は、私たちの世界観を根底から揺るがす地点ではなく、 現状を総括する地点に落ち着いたように思う。先述の通り、事前に得た情報が絶賛の嵐だったこともあり、私は勝手に、本書に世界観の革新を期待していたため、少し物足りなさを覚えたかもしれない。

  もう一つここに記しておきたいことは、私はこの本を一気に読むことはできなかった、ということだ。本書は500ページを超える大作なのだが、読んだ人の話を聞くと、時間を忘れて一気に読んでしまった、という人が少なからずいる。確かに、文章は読みやすいし、エンタメ性は高いし、グイグイ読めそうなのだが、私は、あまりの性的描写の多さに、少し辟易してしまった感がある。何もカマトトぶるわけではない。私は人並み以上にスケベな人間だと自負している。しかし、「人間を全体から捉えつつ、個々の内奥まで描く」ことを目指した本書において、人間性が吹き出す場面の多くが、性的行為を伴うことに、すこし食傷気味になった。んー、ヒトってそんなにエロスに偏ったアニマルだっけな?と思ってしまった。

 なんだか嫌ゴトばかりの感想になってしまった感があるが、先述の通り、間違いなく面白い小説だったと断言できる。でも、同時にモヤモヤも残る一冊だったということだ。

 脳科学素粒子物理学に、興味はあるけど難しそう、と食わず嫌いをしている人には、エンタメ・サイドの入門書として最適だろう。大昔に説かれた原始仏教と最先端の素粒子物理学の知見が、奇妙に一致する不思議な「この世」の扉を空けてくれる一冊だと思う。

教団X (集英社文庫)

教団X (集英社文庫)

 

22冊目 アーティスト症候群

『アーティスト症候群』 大野左紀子 著、読了

 「カエサルの休日」の中で、パーソナリティのお一人であるダニエルさんが、紹介されていたので手に取った。

 読み終えたのは3ヶ月以上前なので、はっきりとしたことは覚えていないが、なぜ「芸術家」ではなく「アーティスト」と名乗りたがる人が多いのだろう。「芸術家」には敷居の高さや重苦しさがあるのに、「アーティスト」って響きもオシャレだし、軽やかだ。でも、「アーティスト」を名乗る人たちって、実際どんな人たちなの?

 本書は「芸術家」ではなく「アーティスト」を名乗る人たちの自意識を、シニカルに批判する。「アーティスト」は自称であり、ほとんどが「ニセモノ」だと言わんばかりだ。特に芸能人で「アーティスト」を名乗る人びとに対しては、かなり厳しい語調で批判している。覚えている限りでは、松田聖子ジュディ・オング八代亜紀工藤静香石井竜也藤井フミヤ片岡鶴太郎ジミー大西などがその対象だ。彼らの作品を通じて、ほとんど人格攻撃とも受け取れるような批判もあった気がする。「絵なんか描かずに与えられた歌でも歌ってればいいんだよ!」くらいの勢いでディスっていたと記憶している。

 こうした忌憚のない厳しい批判に晒されるのが、もしかしたら本物のアーティストなのかもしれないが、それにしても、インターネットで得ただけの情報や著者の印象を基にした批判もあり、質の高い「批評」を読んでいる気持ちにはなれなかった。

 本書は「アーティスト」を自称しちゃうような人種の自意識を、ニヤニヤしながら味わうところに醍醐味があるのだろう。でも、私は著者の毒舌には、いまいち乗れないまま読み進めていた。しかし、私は、同じように辛辣で毒のある物言いをする立川談志が大好きでもある。そんなわけで、途中から、なぜ談志には乗れるのに、本書には乗れないのかを、考えながら読み進めることになった。

 談志の方が毒舌家として優れているとか、批評眼があるとか、そういう質的な問題ではないと思った。本書にも「なるほど!」と新しく学ばせてくれる部分は多分にある。

 談志は確かに、落語家仲間に対して、一見、口汚く罵っているとしか思えないような発言をすることがある。だが、談志と著者の一番の違いは、談志は同時に自分自身もプレイヤーであることだ。観客(読者)に対して、談志自身もまた丸裸で談志のような眼に晒される位置にいる。

  一方、著者は「アーティスト」を批判しているが、自分は批判されない位置にいる。著者が批判したような眼に、著者自身が晒されているわけではない。少なくとも私は著者のこれまでの活動を知らないため、どんな人物なのか知らない。どんなことを思って、このような言葉を綴ったのか知る由もない。つまり、本書のみをもって著者の人となりを思しかなく、その結果、ただ他者を揶揄するだけの嫌味なひと…それでは乗れるわけがない。

 実際、本書も後半になると著者自身もアーティストと名乗り活動していたプレイヤーであったことが語られる。どんなことに思い悩み、苦しんで作品を制作してきたのかが語られる。それを読んでいると前半の嫌な気分がかなり中和された。

 同じ言葉でも誰が言うかによってかなり印象が異なることがある。特に書籍は純粋にバーバルな媒体なので、誤解を与えやすいかも知れない。会話の中では大したことなくても、メールで書くと冷たい印象を与えてしまうのと同じだ。だから、著者の人となりが伺える後半を読んでから、前半を読めば私もニヤニヤと楽しめたかもしれない。

 そんなわけで、私にとっては、人間性のもつ影響力について考えさせられる一冊だった。

アーティスト症候群---アートと職人、クリエイターと芸能人 (河出文庫)
 

21冊目 モモ

『モモ』M.エンデ 著、読了

 

 最近、一冊の本を完読する集中力が衰えてしまった。最後まで読み終えた本の感想しか記さないというルールを設けたために、なかなかブログを更新できずにいた。でも、衰えた私をして最後まで読み切らせるほどの名著を読み終えたので、久しぶりにブログを更新する運びとなりました。

 読んだことはなくても、その存在を知らないという人は少ないのではないか。本書は、それくらい有名な一冊だろう。私もいつか読もう、と買って置いてはあったが、著者の『はてしない物語』があまりにも素晴らし過ぎたため、如何に名著の誉れ高い本書も、『はてしない物語』には及ばないだろう、と高を括って、先延ばしになっていた。だが、読書家の友人の彼女さん(友人も読書家だが、ここでは「読書家」は彼女さんの方にかかる)が、オールタイムベストな一冊として本書を挙げておられたのをきっかけに、手に取った次第です。

主人公モモは特別なちからを持っているわけではない。ただ、ひとの話をよく聞くことができるという才能を持ったの女の子。でも、この設定だけで私は泣いてしまった。

ひとが満たされるときって、有名になったり、お金儲けしたり、モテているときでは、実はない。話を聞いてもらっているときだ(と思う)。だって、話を聞いてもらうってことは、自分に向き合ってもらうってことなのだから。でも、近年、コミュニケーション能力の高い人材が求められたり、阿川佐和子の『聞く力』がベストセラーになったり、つまり、それだけひとの話を聞けない = ひとと向き合うことができない人が多いってことなのだろう。

 小さなモモにできたこと、それはほかでもありません、あいての話を聞くことでした。なあんだ、そんなこと、とみなさんは言うでしょうね。話を聞くなんて、だれにだってできるじゃないかって。

 でもそれはまちがいです。ほんとうに聞くことができる人は、めったにないものです。そしてこのてんでモモは、それこそほかにはれいのないすばらしい才能を持っていたのです。

 モモに話を聞いてもらっていると(以下略) 

 ひとと向き合うのが苦手な人が、昔に比べて増えたのかどうか、私にはわからない。でも、話を聞くことの難しさなら、実感としてわかる。真剣に相手に向き合って話を聞くということは、ほとんど不可能に近いんじゃないかとすら思う。

脳科学的には、人間は一つのことを1分以上考えることができないらしい。(もしかしたらもっと短い時間だったかもしれない)例えば「リンゴ」をイメージしてください、と言われても、そのイメージを1分以上保持し続けることはできない。1分後には、リンゴとは全く関係のないコト、例えば植木等のことを考えているに違いない。おそらく、そうした脳の仕組みも手伝って、相手に向き合い続けることは難しいのだと思う。

その難しさに負けた人間たち、すなわち時間どろぼうに使嗾されて、ますます相手と向き合うことをしなくなった人びとを救うために、モモは孤独な闘いに挑む。

吉本隆明は「言語芸術論」と題した講演会の中で、ドストエフスキーを評して、「ドストエフスキーの小説は、純粋に物語を追ってエンターテインメント小説としても読めるし、もっと深いところで思想書としても読める。だからすごい」という主旨のことを述べていた。この論を借りるなら、本書も純粋に物語としても楽しめるし、一個の思想書としても読めるすごい本だ。

友人の彼女さんとお話しなければ、危うく『モモ』を読まない人生を送る羽目になっていたかもしれない。なんでもそうだけど、食わず嫌いはよくないってことを気づかせてくれた一冊だった。(でも、食わず嫌いするのは読むべき本や観るべき映画に対して、人生が短すぎるからでもあるんだよな…これって時間どろぼうに支配されてることじゃんか!!モモ、ヘルプ ミー!!!!)

モモ (岩波少年文庫(127))

モモ (岩波少年文庫(127))

 

 

最近買った2枚のCD

自分でも音楽をやっていたころ、つまり、主に学生の頃は、仕送りもバイト代もほとんどすべてCDに注ぎ込んでいた。でも、そんな生活も今は昔、特に定額音楽サービスを利用するようになってからは、すっかりCDを買うという習慣をなくしていた。

でも、音楽だけじゃないけれど、ステキにエンターテインしてくださった方には、その対価をちゃんとお支払すべきですよね、と最近思うようになった。そういえば私の尊敬する数少ない人物、菊地成孔氏も「お得」するばかりでなく、「お損」することも大切だと言っていた。そのためには中古CDや定額音楽サービスよりは、ちゃんと「お損」して、正当な対価をお支払したほうがいいでしょう。(本当に正当かどうかはわからないけど)そんなわけで、本当に久しぶりに新品のCDを買ったのでした。

1枚目

BEST SELECTION “noir

BEST SELECTION “noir"(初回生産限定盤B)(DVD付)

音楽を聴いて、夜も眠れないくらい切ない気持ちになったのは、宇多田ヒカルの「First Love」を聴いて以来のことです。声が好き。

 

2枚目 

BIZARRE CARNIVAL(初回限定盤)

BIZARRE CARNIVAL(初回限定盤)

 

私の尊敬する数少ない人物、みうらじゅん氏が某NHKの番組で紹介していた曲、「大人になったら」がぶっ刺さって以来、ステキな棘はまだ抜けていません。今だに夜な夜な傷みます。ちゃんとかっちょいいのに、オーバーグラウンドで活動する数少ないバンド。声が好き。

 

追伸:

以前、「オールタイム・ベストなヴォーカリストって誰?」と尋ねられたとき、咄嗟にジェームズ・カーとお答えました。もちろんジェームズ・カーも大好きですが、あれから何度も自分会議を重ねに重ねた結果、

女性部門:Adele (声が好き)

男性部門:フレディ・マーキュリー (おヒゲが好き)

別格:美空ひばり (声が好き)

ということで最終決定いたしました。遅ればせながらご報告いたします。

いやいや、ちゃんと一人に絞り込めよ!と仰るなら、植木等(歯が好き)と答えます。よろしくお願い申し上げます。

20冊目 冬の鷹

『冬の鷹』 吉村昭 著、読了

 

居島一平加藤陽子両氏の影響で、にわかに歴史に興味を持った私は、楽しく歴史のお勉強に取り組めるよう、歴史小説を読もうと思った。そこで何を読んだらいいのか、しばらく迷っていたが、綿密な取材に定評のある吉村昭がいいのではないかと思いたった。そういえば、以前読んだ本があったはずだと、本棚の奥から引っ張り出してきたのが本書だ。

本書の主人公は前野良沢。副主人公は杉田玄白。辞書も文法書もない時代、不可能とされていたオランダ語の翻訳を、強い信念でやり遂げた二人の物語。実際の翻訳作業に関しては良沢に負うところが大きい。玄白や他の仲間たちは、良沢が翻訳するにあたってサポーターとしての役割を果たした。しかし、大変な苦労の末、念願の翻訳が成り、『解体新書』が出版されてみると、そこに前野良沢の名前はなかった。学者肌で潔癖な良沢は、不完全な翻訳である『解体新書』の出版に反対だった。完璧な翻訳よりも、西洋医学そのものを世に問う方が重要だと考える杉田玄白は、半ば独善的に『解体新書』の出版に動く。

本書において良沢と玄白は対象的な存在として描かれる。良沢を「陰」とすれば、玄白は「陽」である。『解体新書』の成功を機に、医学者としての成功を収めた玄白は、多くの弟子を育て、家族にも囲まれ、裕福な一生を送る。社会的な名声よりも、自らの学業の研鑽に邁進した良沢は、孤独で貧しい老後を送る。

本書を初めて読んだのは、もう10年以上も前になるだろうか。当時は高潔な良沢の生き方に共感した。しかし、今回、読み返してみると、現在の私には玄白に対する共感の方が勝っていた。「医学」ということを主軸に考えてみると、鎖国下の日本において、西洋医学を世に問い、その意義を知らしめることができたのは、玄白の如才ない政治的な才覚と人徳があったればこそ、というふうに読めたからだ。

一方、良沢は「翻訳」に果たした役割は比類ないものであったが、「医学」に果たした役割ということを考えるとどうであろう。

かれは医家であったが、それよりも一層オランダ語研究者であった。かれは、オランダ書を翻訳することに意義を感じていた。 

 

とまれ、私は良沢の理想主義的な生き方に憧れる。一方、「人間」として、人とひととの関係の中で生きた玄白の生き方も立派だと思えた。

本書には、実はもう一人、対象的な人物が描かれている。平賀源内である。良沢と玄白は陰陽関係ではあったが、二人ともブライトサイドを歩んだ。一方、源内はダークサイドに堕ちた人物として描かれる。良沢のように自律的な厳しさを持たず、玄白のように人好きのする性格を持たない私は、実は、源内の生き方にゾッとする共感を得たのかもしれない。

「地に足をつけた生き方をすべし」 本書は、今の私に、そのようなメッセージを送ってくれているように思えてならなかった。

冬の鷹 (新潮文庫)

冬の鷹 (新潮文庫)