10冊目 科学哲学の冒険
『科学哲学の冒険』 戸田山和久 著、読了
私は著者のファンだ。今までにも何冊か戸田山先生の著作を読んできた。私は戸田山節が好きなのだ。
正月から戸田山先生の『哲学入門』を読んでいる。非常に興味深い本だ。入門書とはいいながら、内容はとても濃い。しかも分厚い。だからちょっと難しい。『哲学入門』に挑戦するのは、今度で3回目。回を重ねるに連れて、だんだん理解は進んできてはいるが、第3章辺りから、ちょっと着いていけない感がある。そこで、『哲学入門』をより理解するために、まずは本書を読むことにした。
本書は、科学哲学の入門書である。主に科学に対する態度が論じられている。科学に対する態度は、科学的実在論、観念論、反実在論の3つに大別できるらしい。そして著者は、科学的実在論の立場から、本書を通じて、科学という営みを擁護することを試みている。それぞれの立場がどのようなものであるか、といった内容にはここでは踏み込まない。残念ながらおバカな私の頭では、一読しただけでは、踏み込んで感想を述べるだけの整理ができていないからだ。
しかし、本書は 実に面白かった!はじめてとなる今回の読書体験だけでは、この本の内容を血肉化して、自分の世界観に組み込むほど深く理解はできなかったけれども、本書は、今、私が興味を持っていることに、非常に接近した議論がなされていることはわかった。直ぐに再読して、できるだけ血肉化できるように読み込みたいと思った。少なくとも、本書の内容が私の脳髄博士にインストールできれば、私の世界観のヴァージョンアップになること間違いなし!という確信が持てた。ますます戸田山先生のファンになってしまった。
科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる (NHKブックス)
- 作者: 戸田山和久
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2005/01/27
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- 購入: 20人 クリック: 134回
- この商品を含むブログ (136件) を見る
8、9冊目 神々の山嶺
ホンタナというpodcastで絶賛されていて、本書に興味を持った。ホンタナ内で、触れられていた著者のあとがきに強く関心を惹かれた。そのあとがきを引用してみる。
書き終わって、体内に残っているものは、もう、ない。
全部、書いた。
全部、吐き出した。
力およばずといったところも、ない。全てに力がおよんでいる。
(中略)
もう、山の話は、二度と書けないだろう。
これが、最初で最後だ。
それだけのものを書いてしまったのである。
これだけの山岳小説は、もう、おそらく出ないであろう。
それに、誰でも書けるというものではない。
どうだ、まいったか。
著者をして、ここまで言わしめるほどの小説とはどのようなものか。興味を持つなという方が酷だろう。
あらすじを簡単に説明するのは難しい。一つのカメラを巡って、山岳史に残る最大のミステリーを解くことが、物語を進める上でのひとつのエンジンになっている。だが、物語の本質はそこにはない。
山と生活は両立できない。仕事や家族、恋人を取れば、山は捨てるしかない。山を取れば、人並みの生活は失うことになる。山の持つ魅力に憑かれる者は多い。しかし彼らのほとんどは、生活を取る。取らざるを得ない。生きるということは生活するということだ。生活するということは、家族を持つということであり、仕事をするということである。バイトをして金を貯めて、死ぬかもしれない危険を侵して、家族や恋人を不幸にして、山に登ることにどれだけの意味があるだろうか。ある程度の年齢になれば、そんな疑問が頭をもたげてくる。そして、彼らのほとんどは生活を取る。趣味的に山に登れれば、それでいいじゃないか、と。
主人公、深町誠も山に取り憑かれた男である。かといって、山にすべてを賭けられるほどの覚悟は持てないでいる。生活と山、どちらも捨てられないでいる。山で味わった挫折は、山でしか克服できない。それはわかっている。でも、自分にはそれだけの才能はないことも知っている。中途半端なところで、ぶら下がっている。
そんな深町の前に、山にすべてを賭けた男が現れる。伝説の山屋、羽生丈二。羽生の純粋なまでの山に対する姿勢に、揺さぶられながら、自分と山、自分と生活を見つめ直すことになる。
一部の才能を持つものだけが、世界を切り拓いてゆく。そんな世界観を持っている人が多いかもしれない。では、多くの才能を持たざる者たちは、彼らの為す、前人未到の偉業を褒め称えるためだけのモブキャラなのだろうか。私たちのような凡夫は、生活するために生きるだけの人生に満足すべきなのだろうか。一方、世界を切り開く者は、誰もなし得ないことをする者は、満たされているのだろうか。人と違う生き方をすることは、生活を捨てて生きるということは何の不足もないことなのだろうか。
凡夫と天才。どちらも、それぞれに負うた十字架がある。凡夫と天才。本書は、そのどちらの想いも掬い上げて筆にのせている。それがすごい。特に、羽生と深町、それぞれの独白(手記)部分は、本書のハイライトだ。強く揺さぶられる。刻まれる。
何かをあきらめるということは簡単じゃない。何かをあきらめたフリをして、別の大切な何かのために生きようとしている。そうやって納得しようとしている。忘れようとしている。でも、本当はあきらめたはずの何かは、いつまでも心のどこかで、くすぶり続けている。それは、自分の心の中でのことだから、本当には騙すことはできない。
そんなくすぶりが思い当たる人の、それぞれにとっての「山」を、厳しく、切なく、甘く、美しく、残酷に肯定してくれる一冊だった。
おれは、羽生の役はできないかもしれないが、前の女のことも、ついくよくよ考えたり、がんばってしまったり、そういうことをそのまんま抱えたまま、おれは丸ごと、深町誠でいることしかできない
7冊目 喜嶋先生の静かな世界
『喜嶋先生の静かな世界』 森博嗣 著、読了
友人の彼女さんがオススメしてくれた本。
著者の半自伝的な小説。研究者としての日常が描かれている。とりたてて大きな事件が起こるわけでもなく、淡々とした日々の物語が綴られてゆく。
日記とは、本来、誰かに読ませることを前提に記される文章ではないだろう。だからそれは、外連味たっぷりで、エンターテインメント性こってりな文章にはならないはずだ。本書を読んでいて、私は、誰かの日記を読んでいるような感覚に捕らわれた。
私には、自分で「精神の処女膜」と名付けた性質がある。私にとって『カウボーイ・ビバップ』はオールタイム・ベストなアニメ作品だ。にも関わらず、大学当時、はじめて観たときにはピンとこなかった。2回目に観たときに、初めて、「これは名作だ!」と感じられた。つまり、私にとって、初回の体験は、精神の処女膜を破るはたらきしか持たず、2回目以降になって、初めて作品の持つ豊かさを享受できる。そういうことが、往々にしてある。
そんな精神の処女膜を持つ私のことだから、よく読めていないだけかもしれないが、今回、本書を初めて読んだ限りにおいては、主人公が、なぜ初めからそんなに喜嶋先生に魅かれたのかがよくわからなかった。主人公は、特に理由もなく、まるで恋のように、出会った瞬間から喜嶋先生を敬愛していたように思えた。少なくも、喜嶋先生との交流の中で、次第に心魅かれていったという印象は受けなかった。
先に、本書を読んでいて、誰かの日記を読んでいるような感じを持ったと記した。本書を、個人の内面を吐露した日記だとすれば、そこに示される主人公の内面は、常にいたって冷静だ。文章から読み取れる彼の内面は、静か過ぎるほど静かな印象をもって綴られている。
文字を読むのが苦手だった幼少時代や、さらに他者の感情を読む能力に乏しいことなどを加味すると、ある種の人格が欠落しているがゆえの静けさのようにも思われた。自分に対しても、他者に対しても、強い感情を抱くことができない人間であるかのような…。タイトルの『静かな世界』の「静けさ」は、主人公の内面世界の静けさを表したたものではない。タイトルのそれは「数学的な世界の静けさ」を指したものだろう。にも関わらず、本書を通じて強く感じられるのは、主人公の内面の静けさだった。
これを読んだ友人は、とりたててドラマチックな展開があるわけではないので、最初は物足りなさを感じていたようだ。だが、次第に登場人物たちが自分の中で動き出し、自らの学生時代のことを懐かしく思い出したとの感想を持ったらしい。
しかし私は、その友人のように、本書を自分の側に引きつけて読むことができなかった。なぜというに、私の学生時代の内面は、決して主人公のように静謐なものではなかったからだ。もっと醜く、ドロドロとして、臭気芬々たるグロテスクなものだったからだ。学生時代の私の内面は性欲や自己顕示欲を中心とした、執着や嫉妬にまみれたものだった。対して、主人公はストイックに情熱を傾ける対象と、脇目も振らずそれに集中できる資質を持った人物だ。私の青春が、誰かを求め、その誰かを燃やし尽くしてしまうドス黒い炎だったとしたら、主人公のそれは、独り高温で燃え続ける青い炎のように思えた。
こういうふうに記してくると、私が本書を批判しているように思われるかもしれない。だが、決してそうではない。とてもおもしろく読むことができた。私も誰かにオススメしたいとさえ思えた。その理由は以下の2点にまとめることができると思う。
第一点は、本書が研究者としての在り方を描いている点だ。“大学”という組織のしがらみの中で、純粋に研究をするということの難しさ。自然科学者として在るべき姿勢、自然科学者の観ている世界の豊かさ等々について描かれてる。本書の帯に「この本を読むと・考えてもわからなかったことが突然わかるようになります。・探してもみつからなかったものがみつかるかもしれません。(中略)・年齢性別関係なくとにかくなにかが学びたくなります」と書かれているが、これは誇大広告ではない。確かに、何かを学ぶということの醍醐味の一端が、本書を通して、およそ研究には向かない怠惰な私にも感じられた。
二点目は、先述の通り、本書が外連味たっぷりなドラマ性を、一切、排除している点だ。一般的な人間の生活、つまり私たちの生の生活は、得てしてドラマのようにはドラマチックではない(←ヘンな文章w)。本書にも、もちろん創作なのだから、ある程度のエンタメ性は加味されているのだろうが、繰り返しになるが、全体を通じて特に大きな出来事があるわけではない。いたって平坦な物語が展開するに過ぎない。
このようなエンタメ性を排除した文章は、ちょっぴり物足りなさを感じさせるかもしれない。しかし、私たちの日常で、実際に起こっていることは、映画や小説のように何かの前フリであったり、後日、見事に回収されるものではない。あのときのあれはなんだったのだろう、と後々振り返ってみてもスッキリしないこともたくさんある。日常的な出来事は、その後に起こるドラマの布石や暗示ではない。
だから、取り立てて何も起こらない主人公の物語世界は、私たちの住む生の世界はそんなに離れてはいない、地続きの世界であるように感じられる。そこに「日常」というリアリティを共有する余地が生まれる。主人公と私とは、先述のごとく全く趣を異とする人間だが、にも関わらず、主人公の気持ちに共感できる。こういう人もいるんだなぁ、と思える。だから、主人公がいきなり喜嶋先生を尊敬していたとしても、確かに、本人に出会う前から、周囲に立派な先生だという評判を聞かされていたら、そういう評判の影響で、そうなることってあるよね、とも思える。それは、本書が私たちの世界と地続きの世界を描いているからだろうと思う。行間を私たちの持っているリアリティで埋めながら読めるのだ。それが本書の最大の魅力であると感じた。
現実を徹底的に描写することがリアリズムなのではない、ということを本書は教えてくれた。そんな意義深い読書体験に導いてくれた友人の彼女さんに感謝しています。
喜嶋先生の静かな世界 The Silent World of Dr.Kishima (講談社文庫)
- 作者: 森博嗣
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2013/10/16
- メディア: 文庫
- この商品を含むブログ (16件) を見る
6冊目 ヨブ記
2月上旬、姉が難病であることが判明した。そこに運命の理不尽さを感じた私は、同じく理不尽な神の試練に苦悩し続けたというヨブの物語のことを思い出し、この機に読みたいと思った。
読んでみての率直な感想は、今回の読書体験では、本書は私の心の要求には答えてくれなかった。神が与えたもうた理不尽な試練に対し、ヨブはどのように嘆き、苦悩し、受け入れるか、あるいは拒絶し、絶望するか。その姿がどのように描かれているか、を期待しながら読んだが、本書は、そのような現代的な心理描写はほとんどなかったからだ。内容の殆どは「私は正しい!」「いや、君は間違っている!」という議論に割かれている。
神を畏れ敬い、道徳的にも正しく生きてたにも関わらず、ヨブは神の試練により、家族、財産、健康をことごとく失う。それでもヨブは、
「われわれは神から幸いをも受けるのだから、災いをも受けるべきではないか」
といってその試練を受け入れようとする。
が、次のページになると突如として神を呪う言葉を吐く人物に豹変する。
さらに、
彼ら(年の若いものたち)の父たちはかつてはわたしがいやしめて
わが群の犬どもと一緒にすらしなかったのに 〈()内、引用者補足〉
という他のひとを見下すような台詞もある。こういった箇所を読むたびに「?」となってしまう。善人で、道徳的にも正しい男のはずなのに、人を見下したりしてたの?と思ってしまう。
本書?が記されたのは、大昔のことである。現代的な倫理・道徳観で読むとちょっとわかりづらい点もあるのだろう。そのうえ、冒頭と終末以外は、詩文形式で記されていることも、私には消化不良の一因になったのだと思う。
さらに解説を読んで納得したのだが、本書?は全四二章から成るが、一〜二章と四二章七節(これらの部分だけは散文形式で記されている)の間に、詩文形式の部分が挟まった構造をしている。これは元来別の由来をもつ民間伝承が混ざったり、後の時代に加筆されたりした可能性が高いことを示唆しているという。なるほどそうした歴史背景によって、ヨブの人物描写や、物語の流れに一貫性がないように、私には思われたのだろう。
一冊の本の内容を(それが自分を納得させる程度のレベルだとしても)つかむためには、やはりその本が書かれた背景を知らなければならないのだな、と今回の読書体験を通じて、改めて強く感じさせられた。そして今の私は、本書をつかみとるためには、あまりにものを知らなさすぎたように思う。Podcastで配信されていた吉本隆明さんの「苦難を越える〜『ヨブ記』をめぐって」という講演も参考に聞いてから本書に臨んではみたが、やはり二千数百年以上の歴史を持つ本書は、生易しいものではなかった。
5冊目 この世界の片隅に
先週末、高熱を出し、療養している床の中で読んだ。
私は悪い意味でのニヒリストだ。人間なんてチッポケで、弱っぽしくて、愚かで、醜い生き物だ。世界は生きるに値するなんて思えない。
でも、ときどき「作品」を通して、ニーチェが言ったような瞬間に出会うことがある。その瞬間を味わうことができるなら、どんなにみすぼらしい人生であっても、もう一度繰り返しても構わないと思えるような瞬間に。
「こんなにもチッポケで、弱っぽしくて、愚かで、醜い人間が、どうしてこんなにも美しいことを考えることができるのだろう、こんなにも美しいものを生み出すことができるのだろう」
そういう感動が得られたとき、少なくとも、その感動を得ている瞬間だけは、私は私自身を含めた世界というものを、何のわだかまりも、欺瞞もなく肯定できる。
「時間よ止まれ!汝は美しい!」と言いうる。
本書は久々にそういう瞬間を与えてくれた。
左手で描いた(と思われる)左手で描いたような背景、冒頭と終末に現れる怪物で挟まれた物語の構造、登場人物たちの台詞の選び方などなど。物語の細部まで考え抜いて作品を作っていることが伝わってくる。あとがきに至るまで血が通っていることが伝わってくる。そういう創作意識をもって創作を続けてくれるひとが居てくれる。そのことが、病床のなかの私には、とてもありがたく、とても励みになった。
『夕凪の街 桜の国』以来、著者の作品は読んだことがなかったが、にわかに他の作品も気になってきた。今後、大切に読ませていただきたいと思う。
生きとろうが 死んどろうが
もう会えん人が居って ものがあって
うちしか持っとらんそれの記憶がある
うちはその記憶の器として
この世界に在り続けるしかないんですよね
あんた…ようこの広島で生きとってくれんさったね
4冊目 龍馬史
『龍馬史』 磯田道史 著、読了。
昨年の下旬、米粒写経の居島一平さんの動画にハマってから、にわかに歴史に興味を持つようになった。昨年末、歴史好きの友人にそのことを話したら本書をプレゼントしてくれた。
本書は坂本龍馬に焦点を絞り、彼の生涯を追うことで幕末史全体を俯瞰しようというもの。
幕末史が複雑でわかりにくい理由はいくつかありましょう。まず、登場する集団が多いということがあります。(中略)そのうえ、幕末史には概念用語が頻出します。(中略)
そういうこともあって、私は、坂本龍馬の生涯をたどるうちに、自然と、幕末史の体系的知識が身に付くような簡潔な書物があれば、どんなによいだろう、と考えるようになりました。そこで本書のような歴史叙述を試みました。
私にはある人間観、というか人間を理解・整理するときに用いている2つの軸がある。
一つは「リアリスト〜ロマンチスト」という軸。
これは『ルパン三世 ルパンvs複製人間』の中でマモー京介が、「ルパンは夢を見ない!!」とのけぞるシーンをみてピ〜ンときた。
「ロマンチスト」は、遠足の前日、明日のことが楽しみで眠れず、遠足の当日、昨夜の想像のほうが楽しくてチョッピリがっかりするタイプ。
「リアリスト」はその逆で、遠足の当日に起こることの中から楽しみを見つけだそうとするタイプ。
もう一つは、「革命家〜公務員」という軸。
これは『地下室の手記』を読んでいてビビビッときた。
「革命家」は、現実を変えるために行動できる、あるいは変えられると信じているタイプ。
「公務員」は、現実に対して不満はあるが、せいぜい冷笑的に対するだけで、現実を変えようとはしない、あるいは変えられるとは思っていないタイプ。
この2つの軸の妥当性はともかく、本書を読みはじめて、すぐ、龍馬はこの2つの軸で作られる「リアリスト−革命家」の象限に入る人物だと思った。
龍馬は決して単純な平和論者ではなかったし、時代の大変革が起こる過程では、ある程度の犠牲がでるのはやむを得ないと考えるリアリストでもあったのです。
私が重要視するのは、龍馬が誰よりも早く海軍の重要性を理解し、しかも実際に海軍を創設して自ら船を動かして実践を戦った、ということなのです。海軍が重要だということに気がついた人は、ほかにもいました。しかし、それを後先考えずに実行に移したのが龍馬だったのです。
著者自身、このように記していることからも、私の人間観による龍馬の捉え方もあながち間違っちゃいないと思う。
本書を読んでのもう一つの大きな感想は、龍馬は武士ではなく「ビジネスマン」っぽい人だったんだ、ということだ。
私の場合は『お~い竜馬』の影響で、龍馬に対して、優しくて、思いやりがあり、小さいことにこだわらず、常識にとらわれず、飄々と大きな夢にむかって生きた英雄的な人物像を勝手に抱いていた。
でも、(これは本書の最も優れている点のひとつだと思うが)そういった創作の中の「リョウマ」ではなく、飽くまでも歴史的資料に基づいて、そこから立ち上がってくる「リョウマ」をつぶさに見てみると、彼は決して雲ひとつない大空のような人物だったわけではないようだ。
例えば、龍馬は薩摩や長州に武器を売っていた。それを武士社会の常識にとらわれぬ自由で合理的な精神を持った男だった、と好意的にみることもできるが、現象だけを取り上げれば、武器を売る「死の商人」だったという見方もできる。
また、海援隊が運用していたいろは丸が紀州藩の船に衝突して沈没したときには、不相応な額の賠償金をふっかけた「ゆすり屋」的な側面もあったらしい。
ですから龍馬を単純に颯爽たる志士と考えるのは、必ずしも適切ではありません。彼の本質は合理主義者の「タフネゴシエーター」であり、相手によって表現や主張を変えて、とにかく自己の目的を貫徹するために、見事な交渉をつづけていくところに本領があるのです。
それって、まるで遣り手のビジネスマンじゃないか!
龍馬のことが好き過ぎる人からしたら、もしかしたら龍馬のこうした一面は嬉しくないのかもしれない。けれど、私はむしろ本書を読んで、龍馬だって「クールなふりをしていても夜更けには納豆を食う」ようなワレワレと同じ血の通った人間だったような気がして、嬉しくなった。
龍馬を龍馬たらしめた人物、時代、思想などについても知ることができる一冊だった。とてもいい読書体験をさせてくれた友人に感謝したい。
3冊目 哲学はやさしくできないか
『哲学はやさしくできないか』 三木清 著 読了
私が哲学科を出たという話をすると、「へぇ〜頭がいいんだね」というリアクションをするひとが多い。
「哲学科を出る」ということと、「哲学を学ぶ」ということはぜんぜん違う。
だから、私に対するそのリアクションは的外れなのだが、確かに哲学は難しいと思う。
というか、あまりに難しかったために、私は「学ぶ」のをあきらめて「出る」だけになってしまった。
前回取り上げた『プラグマティズム入門』も私には難しかった。
入門書ですら難しいと感じる自分の愚かさを呪いながら、本書のことを思い出して読むことにした。
本書はタイトル通り、なぜ哲学は難しいのか、という問いに正面から答えようとしたものだ。
著者はまず、読者側の責任について述べている。
例えば高等数学の教科書を、何の基礎知識ももたないひとが読めば難しく感じるだろう。哲学も同じ。ある程度の基礎知識がなければ難しいのは当たり前。学問というものはおよそそういうものだ。なのに哲学だけをとりたてて難しい、難しいと非難するのは勘弁しておくれ、と。
でも哲学には他の学問とは違った難しさもありますね、と認めて、以降、哲学(者)側の責任について論を展開する。
まず、哲学が難しいのは、実は哲学者の中にもよくわかっていないひとがいるからだ、という。そもそもわかっていないのだから、まして、噛みくだいて説明することもできない。
むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、ゆかいなことを いっそうゆかいに
とは井上ひさし氏の名言だけれども、哲学を難しくしか語れないひとは、井上氏的には不合格なのかもしれない。
次に、人びとが哲学に求めるものは、他の学問に求めるものと少し違っている。そのことも哲学を難しいものにしている理由だという。
彼等が哲學において求めるのは人生觀とか世界觀とかいったもの、一般に思想である。
哲学はそのような「思想」を語るために「理論」を駆使する。言いかえれば、哲学とは理論を使って思想を語る学問。
つまり、哲学には「思想的側面」と「理論的側面」がある。最近の哲学は理論的側面が重視される傾向にあるため、人びとが求める思想的側面はどうしても希薄になりがちである。そのような肩透かし感が難しさとして感じられるのではないか、という。
先ほど、哲学も学問だからある程度の基礎知識が必要ですよ、と述べていることを確認した。でも、仮に哲学の専門用語などを勉強しても、なお哲学には他の学問とはちがった難しさが存在するのかもしれません、という話が続く。この辺りの著者の主張をうまく理解できている自信はないけれど、それは哲学の持つ本質に関係する問題のようだ。
哲学の一つの側面である「思想」はそもそも独創的なものである。だから、ある思想がテーマにしている問題意識もまた独特なものである。それを共有できなければ、何でそれが問題なのかすらよくわからないため難しく感じる。私はそんな風に理解した。
例えば私にとっての問題は「なぜ私は私なのか?」ということだった。でも「私」というものにとりたたて不思議さを感じないひとには、「私」をめぐる哲学的な議論はピンとこないかもしれない。
他の哲學を模倣したり翻譯したりすのでなく、他の哲學に從って或ひはそれを手引として自分自身で考へるといふことである。さういふ思索の根源性がなければ他の哲學がほんたうにわかることもできぬであらう。藝術に關して眞の享受は或る創作活動であると云はれるのと同樣である。
思索の根源性からいへば、自分にとってほんとに根源的に理解し、思惟し、研究してゆくことのできる立場というふものが色々あり得るわけではなからう。或る人にとつて或る種類の哲學がコンヂニヤル(性に合つたもの) であり、他の人にとつては他の哲學がコンヂニヤルである。自分にとつてコンヂニヤルな、從って運命的とも性格的ともいうべき哲學をやることが、自分にとつては固より、他人にとつても有益なことである。
川島英五氏が「時代おくれ」で歌うように、似合わぬことは無理をせず、あえて難しい哲学書を読むのではなく、自分に興味のある問題をテーマに据えれば、哲学もそんなに難しいものじゃないのかもしれないよ、と私は読んだ。
他にも哲学が難しい理由がいくつか挙げられているが、最後に、広く一般の人びとに哲学をわかりやすく伝えようとする努力もちょっと足りないのかもしれまんせね、というようなことを述べて、論を終わっている。
しかし、ただわかりやすくすればいいってものじゃないんだよ、と最後にお灸を据えている点は見逃せない。
固より、啓蒙的といふことと俗流化といふこととは嚴密に區別されねばならぬ。俗流化されることによって哲學はほんとにわかるやうになるのでなく、唯わかったやうな氣がさせられるだけであり、實は何もわかることにならないのである。俗流化は哲學を失ふ、哲學をなくすることは哲學をわかるやうにすることではなからう。哲學をわかり易くするという口實のもとに、俗流化によつて、哲學そのものが抹殺されたり、哲學的精神が失はれたりすることがありはしないかを警戒せねばならぬ。
冒頭で述べたように、私はただ哲学科に在籍していただけの自堕落な学生だった。でも、哲学が「あたりまえ」を疑う学問であること、つまり、自分の足場を一度崩すことで、(自分を含めて)世界を新鮮な眼で見つめ直そうとする知的営みである、ということくらいはわかった。だから哲学をはじめると、間もなくちょっとした危機的状況に陥ることになる。自分の寄って立つべき地面を一時的に失うのだから当然だ。
そういう哲学の危険性に触れず、「哲学は人生の役に立ちますよ」とか「哲学をすると迷いがなくなりますよ」とか、「哲学の効用」ばかりを謳った書籍が平積みになっているのを見かけると、何か嫌な気分になっていたのだが、それは、「哲學をわかり易くするという口實のもとに、俗流化によつて、哲學そのものが抹殺され」ているのを目の当たりにしていたからなのかもしれない、と本書を読みながら思った。
2冊目 プラグマティズム入門
『プラグマティズム入門』 伊藤邦武著、読了
師匠からの紹介で、いわゆるひとつの課題図書として読んだ。
「プラグマティズム」という用語は、もともと哲学畑で使われ始めた。
でも、現在は様々な分野で使われるようになり、
つまり、非常に広い意味を獲得した言葉・概念となった。
本書はそんな「プラグマティズム」を、
生まれ故郷の哲学畑に絞って解説しようというもの。
プラグマティズムは2010年代現在、約100年の歴史を持っている。
本書は、その100年を、「古典的プラグマティズム」「ネオ・プラグマティズム」「今日のプラグマティズム」の3つに区切ってまとめくれている。
「古典」の代表としてパース、ジェイムズ、デューイ。
「ネオ」の代表としてクワイン、ローティ、パトナム。
「今日」の代表としてブランダム、マクベス、ティエルスラン、ハーク、ミサック、マクダウェル、プライス。
以上の13名が取り上げられている。
この「13」という数字は、最後の晩餐に出席したキリスト+12人の使徒にかかっており、
「プラグマティズム」にとっての救世主や裏切り者が含まれていることを示唆している、
のだそうだが、私には本書のそういった仕掛けを紐解くほどの余裕はなかった。
13名という多くの哲学者の考えに加え、
プラグマティズムに関連する周辺の哲学思想、
例えば論理実証主義などの解説も含まれた非常に内容の濃い一冊であり、
私のような哲学素人はすぐに食傷してしまったからだ。
アマゾンレビューには「わかりやすい」などの評価も多く見られたが、
少なくとも私には、寝る前にチョロっと読んで3日で読了というような生易しい本ではなかった。
今回の読書体験で私がわずかに掴み得たのは、
プラグマティズムが、古代ギリシアから続く伝統的なヨーロッパ哲学に異を唱えた、新大陸の若者たちによるパンク精神から生まれた哲学思想だったということだ。
ポスト池上彰の現在、「入門書」といえば、
何の予備知識も持たないひとを対象に書かれたものであるかのように錯覚していたが、
本書は「哲学入門」ではなく、あくまで「プラグマティズム入門」なのだ。
著者あるいは編集者は、哲学のイロハは身につけていて、その上でプラグマティズムってものの概要を知ろうとしているひとを読者として設定しているように思われた。
「哲学は人生の問題解決に役立つ」、「哲学はあなたを楽にしてくれる」的な哲学の効用を謳ったエセ哲学の本が平積みされているのを見かける機会が多くなったこの頃、
ちょっと難しいくらいの硬派な本書は、むしろ好感が持てるものだった。
また間を開けず挑戦したいと思う。
その時は、「科学と芸術は等しく価値がある」という主張を理解することをテーマに読みたいと思う。
1冊目 『コンビニ人間』
『コンビニ人間』 村田沙耶香著、読了
年始にBSジャパンで放送された、
「文筆系トークバラエティ ご本、出しときますね?」
のSP番組に著者が出演していた。
その時の彼女のチャーミングさ、面白さに胸を打たれて本書を読もうと思った。
また、友人がブログで本書を取り上げていたこともインセンティブになった。
主人公、古倉恵子は36歳の女性。
ちょっと普通じゃない彼女は、
これまでに恋愛も結婚も就職もせず、
コンビニのアルバイトだけが社会との接点。
読み始めてすぐの頃は、
この主人公はブッダの悟りの境地に近いのかな?
という感想を抱いた。
以前、『仏教思想のゼロポイント』 魚川祐司著 を読んだことがある。
これまでにさまざまな「偉い人」たちによって加筆修正されたものではなく、
ブッダ本人による「悟り」のオリジナルな姿とはどのようなものだったのか。
それに迫ろうという主旨の名著だった。
そして、私の拙い理解によれば、
ブッダの悟りとは「あらゆる現象を徹底的に物理現象とみなすこと」のようだ。
感覚、感情、意志、理性といった心的現象も含めて、
この世界で起こる現象はすべて物理現象に過ぎない。
例えば、「リンゴが樹から落ちる」という現象に、
善いとか悪いとか、正しいとか間違っているとか、尊いとか賤しいとか、価値があるとかないといった属性はない。
ただ、物理的に「リンゴが樹から落ちる」という現象があるだけ。
それと同じように、例えば「人を愛する」ことにも、
善悪、正誤、貴賤、価値といったものはない。
ただ物理的な現象として「人を愛する」だけ。
本書の冒頭を読んでいると、主人公もそういう世界観に生きているように思えた。
例えば幼稚園のころ、公園で小鳥が死んでいたことがある。どこかで飼われていたと思われる、青いきれいな小鳥だった。ぐにゃりと首を曲げて目を閉じている小鳥を囲んで、他の子供たちは泣いていた。
(中略)
私の頭を撫でて優しく言った母に、私は、「これ、食べよう」と言った。
(中略)
「小鳥さんはね、お墓をつくって埋めてあげよう。ほら、皆も泣いているよ。お友達が死んじゃって寂しいね。ね、かわいそうでしょう?」
「なんで?せっかく死んでるのに」私の疑問に、母は絶句した。
私は、父とまだ小さい妹が、喜んで小鳥を食べているところしか想像できなかった。(中略)何で食べないで埋めてしまうのか、私にはわからなかった。
家族は私を大切に、愛してくれていて、だからこそ、いつも私のことを心配していた。
「どうすれば『治る』のかしらね」
母と父が相談しているのを聞き、自分は何かを修正しなければならないのだなあ、と思ったのを覚えている。
「なんか恵子変わったね」
(中略)
それはそうだと私は思った。だって私の摂取する「世界」は入れ替わっているのだから。前に友達と会ったとき身体の中にあった水が、今はもうほとんどなくなっていて、違う水に入れ替わっているように、私を形成するものが変化している。
(中略)
身に付けている洋服も、発する言葉のリズムも変わってしまった私が笑っている。友達は、誰と話しているのだろう。それでも「懐かしい」という言葉を連発しながら、ユカリは私に笑いかけ続ける。
このように主人公の視点は、生死に対しても、他者に対しても、自分に対しても、一定の距離を保っている。
それはあたかも、「リンゴが樹から落ちる」のを眺めているかのようだ。
透明な「私」という筒の中を通過していく「世界」を眺めているだけの「眼」のような存在。
そこには価値判断の装置である「脳」が搭載されていない。
主人公のそんな視角が、一瞬、私にブッダの悟りを連想させた。
さらに読み進めて、
副主人公たる白羽という35歳の男に同棲を持ちかける件まで来ると、
今度はカントが想定した理性的な人間ってこんな感じなのかな?
と思うようになった。
36歳になって結婚も就職もしない主人公は、
周囲から異様な存在として認識され始めている。
白羽もまた、(別の意味で)世の中から異物として見做されている。
「普通」の人たちのなかで、生きづらさを抱えている二人が、ひょんなことからファミレスで話をすることになる。
ここでの主人公は、
生きづらさの原因を「世の中」の所為にして、独善的な理屈で糾弾する白羽に対し、
飽くまで冷静で論理的だ。
「え、自分の人生に干渉してくる人たちを嫌っているのに、わざわざ、その人たちに文句を言われないために生き方を選択するんですか?」
それは結局、世界を全面的に受容することなのでは、と不思議に思った(後略)
さっきまで文句をつけられて腹をたてていたのに、自分を苦しめているのと同じ価値観の理屈で私に文句を垂れ流す白羽さんは支離滅裂だと思ったが、自分の人生を強姦されていると思っている人は、他人の人生を同じように攻撃すると、少しは気が晴れるのかもしれなかった。
「白羽さんの言うとおり、世界は縄文時代なのかもしれないですね。ムラに必要のない人間は迫害され、敬遠される。つまりコンビニと同じ構造なんですね。(中略)コンビニに居続けるには『店員』になるしかないですよね。それは簡単なことです、制服を着てマニュアル通りに振る舞うこと。(中略)つまり、皆の中にある『普通の人間』という架空の生き物を演じるんです。あのコンビニエンスストアで、全員が『店員』という架空の生き物を演じているのと同じですよ」
あの、悪いんですけど、もう夜なんで、寝てもいいですか?(中略)明日も朝からコンビニなんです。時給の中には健康な状態で店に向かうという自己管理に対するお金も含まれてるって、16年前、2人目の店長に習いました。寝不足で店に行くわけにはいかないんですが」
ここでの主人公の論理的な思考も去ることながら、
「健康な状態で店に向かうという自己管理」のために寝る、
という自分で設定したルールに従おうとするこの行動様式は、
カントの考える道徳観や自由に似ているように思えた。
例えば「人のものは盗まない」というルールを自分で設定したとする。
その後、例え餓え死にしそうになっても、
他人の畑のものを盗んで食べずにいるとき、その人は自由だ。
カントはそう考えた。
こんな時、動物なら空腹に耐えられず、盗んで食べてしまうだろう。
しかし人間には理性がある。
例え自分の首を絞めることになっても、
自分で決めたルールに従うことができる。
そんな時、人間は本能的な欲求や社会的な規則の奴隷ではなく、自由なのだ。
ここまで、(飽くまで私の理解するところの)ブッダだとかカントだとか、
いささか大仰な感想を抱きながら読み進めてきたが、
終盤に至って、主人公はそういう「リッパなひと」でないことがわかる。
コンビニを辞職させられた主人公は、一気に生活不全に陥ってしまう。
生きる意味を失ってしまう。
(コンビニの店員として働き始めた)そのとき、私は、初めて、世界の部品になることができたのだった。私は、今、自分が生まれたのだと思った。世界の正常な部品としての私が、この日、確かに誕生したのだった。
※()内引用者補足
「店員」になる前の主人公は、ナニモノでもなかった。
だから世界に対して、とくに意味を見出す必要はなかった。
「脳」は持たず、透明な「眼」でいればよかった。
でも、「店員」という部品として誕生した彼女は、
歯車として世界と接続したものになった。
そして、それは「店員」という「私」の誕生でもある。
「店員」としての彼女はもはや、世界から独立しては存在できない。
そして、この世界に「店員」として生きることの意味を探し始める。
「脳」を搭載した生き物になる。
だから「店員」でない自分は、世界から切断された存在となる。
生きる意味が見いだせない。
私はふと、さっき出てきたコンビニの窓に映る自分の姿を眺めた。この手も足も、コンビニのために存在していると思うと、ガラスの中の自分が、初めて、意味のある生き物に思えた。
一度搭載された「脳」は、もはや「眼」だけであることを許さない。
「気が付いたんです。私は人間である以上にコンビニ店員なんです。人間としていびつでも、たとえ食べていけなくてのたれ死んでも、そのことから逃れられないんです。私の細胞全部が、コンビニのために存在しているんです」
そして、「脳」が探し出した結論が、
例え「普通の人間」たちの社会に馴染まないものであってとしても、
それは「こちら側」に属するものだ。
それは「脳」を持つ存在が導き出した結論だ。
「普通の人間」と「コンビニ人間」は、どんなにかけ離れているように見えても、
「こちら側」に棲息しているという点では同じだ。
「コンビニ人間」も世界にはめ込まれたちっぽけな存在、
つまり凡夫なのだから。
その意味で、主人公は「治って」いる。
「悟り」を得た覚者ではなく、
阿弥陀仏による救済を受ける側にいる存在だという意味で。
読みながら『ケンガイ』というマンガを思い出した。
このマンガを読んでいなかったら、あるいは読む順番が逆だったら、
『コンビニ人間』は心の中で★5の評価を得ただろう。
それくらい面白い一冊だった。
でも『ケンガイ』に敬意を評するために、
泣く泣く本書は★4にとどめておかなければなるまい。
新年の抱負
読書記録を兼ねて、約一年ぶりにブログを更新しよう
そう宣言したにも関わらず、また放り投げていた。
このブログの存在を唯一知る友人がいる。
昨年末、その友人と久々に会う機会があった。
彼はこのブログの存在を憶えてくれており、
私の更新を時々チェックしてくれていたことが判明した。
彼のその気持が嬉しすぎて、今年こそはちゃんと記していこうと、
気持ちを新たにした次第である。