何冊よめるかな?

本棚の肥やしと化した本たちを供養するため始めたブログ

2018-25 埴谷雄高は最後にこう語った

松本健一 著(聞き手)『埴谷雄高は最後にこう語った』読了

 埴谷雄高の書くことは難しい。埴谷雄高の語ることはおもしろい。

 本書は埴谷雄高が鬼籍に入る、およそ二年前に行われたロングインタビューを書籍化したもの。難解な形而上小説『死靈』の理解の一助になれば、と思い手にとった。インタビューというか、ほとんど対談のような雰囲気すらある。(インタビュアーが長く話して、インタビューイーが一言しか話さないなんてこともままあるw)

 本書を読んで、今回もっとも強く感じたのは、埴谷雄高の思考の柔軟さだった。松本は、本書を次のような文章で書き始めている。

埴谷雄高は、歴史としての現在に生きることをやめ、みずからの思考実験のなかにのみ生きようとした。 

 「思考実験」(埴谷自身のことばを借りれば「妄想」)の効用だろうか、とても齢八十を超えた老人、死を間近に控えた老人とは思えないような、思考の柔らかさを感じた。

 これは本書の締めの部分からの引用になるが、「理想を持つだけでは駄目で、それを(一生)持続しなければならない」という埴谷に対し、インタビュアーが「戦後生まれの最近の若者は理想自体を持たないことが一種のファッションになっているらしいが、そういう時代は生きづらいか、それとも勝手にやってくれと思うか」と訊ねる。すると、

 いや、勝手にやってくれとは思わない。私達の社会生活には必ず波があって、どういう時代にも、いわゆるロマンティシズムとリアリズムの交代のように、理想主義と現実主義の流れの高低もまた絶えずあるわけで(中略)私達の精神はその両方ともを持っているんですね。

 ですから、今の時代がどうあっても、そういうことは全然気になりません。人類の歴史を見れば(中略)絶えず理想が破られて、次の生活密着の時代が続いてゆく。理想が破られた時代のほうが数倍も長いんです。

 (中略)

 すべての時代の標識は長いか、短いかだけで、やがては変わりますね。

 実生活を捨て、妄想の中に引っ込むことで、埴谷雄高は、物事を近視眼的に捉えず、永遠というスパンで捉える(少なくとも捉えようとする)視座を得たように思う。長く生きていると、人生の差異よりも反復の方に眼がいくようになる気がする。「これこれこういうときは、たいていこういうもんですよ」それを「知恵」と見ることもできるけれど、「先入見」とか「決めつけ」と目することもできる。永遠というのは終わりがない。終わりがないから最終的な結論というものがない。性急に答えを出さず、いつまでも傍らに置き、いつまでもああでもない、こうでもないと考え続けるちから。それが埴谷雄高の魅力のなのかも知れないと感じた。

埴谷雄高は最後にこう語った

埴谷雄高は最後にこう語った

 

2018-24 生命に部分はない

A・キンブレル 著、福岡伸一 訳『生命に部分はない』読了

 訳者の前著『生物と無生物のあいだ』『世界は分けてもわからない』を読んだことがあり、いずれもとても面白かったので、本書も気になって手にとった。

 「動的平衡」に関する内容かと思って読み始めたが、そこに通じるものではあるものの、主たる内容は生命倫理に関するものだった。

 今回は長くなりそうなので、最初に断っておくと、私は本書をおすすめしない。理由は簡単で、本書は500ページを優に超える分厚い本だからだ。分厚い本は読むのが大変なので、おすすめはいたしません。でも、こういう本はたくさんの人に読まれるといいな、とも思う。

 本書の原題は「the human body shop」だ。「human body」と「body shop」の合成語だ。人体を各パーツに分けて、まるで自動車修理工場で扱われる機械部品のように見なす生命科学や現代医療を批判的に論じた一冊。

 本書で扱われる“部品”は、血液、各種臓器、精子卵子、子宮(代理母)、胎児、細胞、遺伝子だ。これら一つひとつに対して、具体的な事例(判例や科学者の発言など)がたくさん取り上げられている。

 本書はpart Ⅰ〜Ⅳから成り、全23章で構成されている。もし時間はないけど、ちょっと気になる、というのなら、自分に関心のある箇所(例えば「生殖医療」)とpart Ⅳだけを、とりあえず読んでみるだけでも、著者の意図はかなり理解できるはずだ。part Ⅰ〜Ⅲは、“各部品”についての事例が挙げられ、part Ⅳで、なぜ私たちの社会は人体を部品のように扱うようになってしまったのか考察されている。

 『ゴールデンカムイ』の第2巻で、アイヌの娘アシリパさんが「私たちは人間の力の及ばないものを“カムイ”と呼ぶ」みたいなセリフを言うシーンがあった。アニミズムというか、これは素朴な自然観・生命観だと思う。私もこのセリフに一脈通ずる生命観を持っていた。生殺与奪の権を持っているのは“カミサマ”だけという素朴な生命観を。

 この程、私の友人が、病児や障害のある方の支援をされている女性と婚約した。彼女に会ったとき、出生前診断についてどう思うか訊いたことがある。以前、出生前診断を扱ったNHKのドキュメンタリーを観た。その番組によると、ある医療施設では、胎児に深刻な遺伝子疾患があると診断された両親の、およそ8割が人工中絶を選択するというデータが紹介されていた。病気を持って授かった我が子をどうするか。とても苦しい選択を迫られたある母親の姿が印象に残っている。自分がもし当事者だったら、と考えずにはいられなかった。そして、先述の素朴で、ある種、理想主義的な私の生命観に照らせば、生殺与奪の権は私たち人間の側にないのだから、私は授かった生命は大切にしたいと思った。そのことを障害のある方たちと実際に接している彼女に訊いてみたかったのだ。

 果たして、彼女の答えは「中絶すると思う」とのことであった。現実を身に沁みて知っているからこその彼女の選択に、考えさせられるところがあった。理想主義的な自身の生命観に見直しを迫られたような気がした。

 本書は、生殺与奪の権をどこまで“カムイ”に属するものとするか、を問うている。

 例えば、「死」についてみてみることにすると、古典的な「死」の定義は心拍動停止、呼吸停止、瞳孔散大・対光反射の消失だ。この三徴を以て、医師は死を宣告してきた。しかし、1960年代の終わりに生命補助装置が登場して、人工的に呼吸・循環機能を維持することが可能になった。すると、脳のすべての機能が失われた場合でも、生きながらえることができるようになった。こうして「脈打つ死体」から、いつ生命補助装置を外すか、という問題が立ち上がることになった。さらに、ここに「臓器移植」が絡むと、新たな問題が立ち上がってくる。

臓器を求める者の眼には、この患者(「脈打つ死体」)はまたとない贈り物に映る。人工的な延命法が、臓器を取り出すために必要な時間を稼いでくれるのである。 *()内、引用者補足

 例え自発的な生命維持が不可能な状態にあるにせよ、生きた人間の臓器を取り出して移植するわけにはいかない。そこで、脳の機能に基づいた新たな死の定義、すなわち「脳死」が提案されることになった。ありていに言えば、ちょっと早めに死んだことにしよう、ということだ。

 他方、移植技術の向上により、人間の臓器に対する需要が、供給をはるかに上回るようになった。1997年時点で、51,000人以上のアメリカ人が臓器の提供を待っており、このリストには30分ごとに新しい名前が付け加えられているのだそうだ。そして、アメリカでは毎年200万人以上の方が亡くなっているが、そのうち臓器提供に適した状態での死者は、25,000人程度に留まるようだ。

 市場主義的な考え方からすれば、需要≫供給という状態は損失、ということになる。

 そこで、延髄や間脳を含む「全脳死」だけでなく、人格などの高次機能を司る脳の領域、すなわち大脳新皮質の機能を失った状態も「脳死」に含めてしまおう(「大脳新皮質死」)、という動きが目立ちはじめた。不可逆的に人格を失った状態は、事実上生命を失ったとみなしてもよいではないか、ということだ。「脳死」より、もっと早く死んだことにすれば、その分、臓器の供給源が増やせる、という意図が見え隠れする。

 ところで、この拡張された新しい死の基準に従えば、無脳症の赤ちゃんは法的に死んでいるとみなしてよいことになる。そこで、次のような事例が生じた。

 1992年3月、テレサと名付けられた赤ちゃんが生まれた。彼女の両親は、妊娠中からテレサちゃんが無脳症であることを知っていたが、中絶はしないと決めていた。テレサちゃんを生んで、その臓器を必要とする他の赤ちゃんに提供しようと考えていたからだ。しかし、出生後、テレサちゃんの自然死を待つと、その臓器は他の赤ちゃんへの移植には適さないものになる可能性があった。医師は彼女が生きている状態で臓器摘出することをよしとしなかった。そこで両親は、彼女には脳幹機能はあるものの誕生時点ですでに「死んでいた」とみなすよう裁判所に願い出た。しかし裁判所は、この申し出を棄却した。そうこうしているうちにテレサちゃんは亡くなり、臓器は移植に適さない状態になってしまった。

 この裁判に対し、裁判所が迅速に脳死裁定をしなかったためにテレサちゃんの臓器が使えなくなってしまった、と多くのひとが憤慨したという。その一方で例えどんなに短いものであれ、テレサちゃんが生きていたことは確かだとする意見もあったらしい。

 この話は無脳症だけに留まらない。大脳新皮質死を「人間の死」と認めれば、永久的植物状態(PVS)やアルツハイマー病の患者さんも、その範疇に含まれることになる。

 倫理学者デイビット・ラムの言葉が紹介されている。

いまだ息がある死体という考え方は、倫理的に受容しがたい。たとえば、それをどう葬ればよいのか。呼吸を続けているというのに埋葬したり火葬することができるだろうか。それとも誰かが最初に死体を「窒息」させろとでもいうのか。 

  さらに、「死」を定義することは「生」を定義することにつながる。大脳新皮質の機能がない状態を「死」とすると、中枢としての脳活動が始まる二二週齢以前の胎児は「生」を獲得していないことになる。そうして、本書は「胎児マーケット」という章に続いてゆく。

 partⅣでは、なぜ人間の身体が、まるで自動車の部品のように扱われるようになったのかが、歴史的に考察される。一言でいえば、17〜18Cに出現した啓蒙主義の時代に説かれた「機械論」と「自由市場主義」が、時代とともにエスカレートして、それまでの自然観、生命観を侵食・破壊してきたためだとされる。

 機械論の嚆矢として、有名なガリレオが取り上げられている。

自然界は、形而上学的な見方や精神論から解明できるものではなく、定量的な測定や厳密な数学的解析を通してのみ理解できるというのがガリレオの信念であった。

 以下はガリレオに対する、科学史家ルイス・マンフォードの言葉。

彼の本当の大罪は、教会の教条や規範を含めたさまざまな人間の経験の全体像を、観測可能で、物質と運動のことばで説明できる、ごく限られた部分に置き換えてしまったことにある。

  ガリレオからはじまり、デカルトやラ・メトリーらが機械論的世界観を育てていった。この世界は神が創り給うた精巧な時計のようなものである。被造物たる私たち人間も、どれほど複雑巧妙であるにせよ、各種の部品からなる時計じかけの人形のようなものだ。そのような自然観が醸成されていったという。

 もう一方の市場主義の源流にはアダム・スミスがいる。利潤追求行動と市場原理とが「神の見えざる手」となって機能し、すべての人びとに善をもたらすと説いた。

 スミスの放任主義は後続の学者たちに受け継がれ、「個々人の自然な経済的希求は、すぐに社会全体の福祉へ寄与する」と主張され、「個人が自らの利益を追求する過程で、需要と供給の「法則」がすべての商品に働いて、その価値と生産量を規定することになる」自由経済の市場が発達していった。

 市場は発達とともに、それまで商品として扱えなかったものまで商品化してゆく。経済学上、「商品」は売買を目的として生産された物品である、と定義されるようだ。しかし、個人の利潤の追求が公共の善になるアダム・スミス的世界の中では、需要と供給に任せるまま、本来は「商品」でないもの、すなわち土地(自然)や労働(時間)も「商品」としてみなされるようになっていった。

人生を時間単位の労働賃金と引き換えに切り売りすることは、生命そのものを取り引きすることや代理母契約で子宮を貸し出すことと紙一重である。自分の時間という、人間の最も貴重な 所有物を切り売りすることをよしとする思考と同じ思考パターンが、今度は人間の最も貴重な人体そのもの、血、臓器、精子卵子の切り売りをもよしとするのである。さらに、もし、機械や便利な装置の発明が特許化できるなら、どうして生きた「発明品」を特許化できないことがあろうか、となる。人間をはじめとする生物もまた工業化システムのなかで、売買したり契約の対象となりうるはずである、ということになる。労働を人間性から切り離して考えることができるなら、人体もそれと同じように切り離して考えられない理由はどこにもないはずだ、となっていく。

  出生前に遺伝的な疾患の有無をみつけ、生まれてくる生命を選別することの延長線上には、遺伝子を調べて「頭の良い子」や「運動のできる子」を選別する優生学的世界が待っている。出生前に病気の有無が判明する社会では、病児の出産・育児・教育などは「自己責任」の下で行われるべきだという不寛容な社会が生まれる可能性がある。

 思想はエスカレートする。ひとつの思想の「究極と根源」にまで考えを巡らせて、ここからさきは“カムイ”の領域、と線引きする「知恵」を、果たしてリンゴをかじった私たち人間は持つことができるだろうか。

 分厚くて読了は大変だったけど、いろいろと考えさせられる一冊だった。

生命に部分はない (講談社現代新書)

生命に部分はない (講談社現代新書)

 

2018-23  イラストオペラブック1.トゥーランドット

プッチーニ 作、伊熊よし子 解説『イラストオペラブック1.トゥーランドット』読了

 偶然、パヴァロッティの《誰も寝てはならぬ》を、YouナントカTubeで観て雷に打たれてから、一年ほど経つだろうか。そういえば大本の物語を知らなかったな、と本書を手にとった。

 G.プッチーニが作ったオペラ《トゥーランドット》の解説書。あらすじが絵本のように読める。その他、原作(カルロ・ゴッツィの戯曲)、プッチーニの生涯、名演ディスクガイドなどの情報が記されている。

 本書は本当に入門書といった感じだったので、次はもう少し踏み込んだ解説書を読んでみようと思った。

イラストオペラブック(1)トゥーランドット

イラストオペラブック(1)トゥーランドット

 

2018-22 ストラディバリとグァルネリヴァイオリン千年の夢

中野雄 著『ストラディヴァリとグァルネリ ヴァイオリン千年の夢』、読了

 兄弟子の推薦図書。

 天才バイオリン職人、アントニオ・ストラディバリ。奇才バイオリン職人、グァルネリ・デル・ジェス。2人を中心に、バイオリンという楽器の魅力を記した一冊。

 著者によれば、バイオリンは魔性の楽器なのだという。中でも、ストラディバリウスには、霊的な力さえあるという。私は現在、努めて唯物論的に世界を眺めようとしているので、そういう語りには、少し警戒してしまう。

 人知を超えた現象や存在を否定しようとは思わない。しかし、そのことは、それらの現象や存在を、なるべく人知の中に取り込もうとする努力を怠っていいということを意味しない。

 本書を読みながら、何かを論じようとするときの、姿勢について考えた。例えば、対象のもつ熱量を、余すところなく伝えようとする姿勢。また例えば、対象という熱源から、ある程度離れて、対象の全体像から浮かび上がらせようとする姿勢。

 本書は前者の姿勢で記されている。著者はバイオリンを愛していて、本書にはその愛が溢れんばかりに詰まっている。バイオリンにまつわるよもやま話がたくさん紹介されていて、読んでいて飽きることはない。

 例えば、チェロを含めた、バイオリン属の楽器は、そもそも、人の声を楽器で作ることを目標としていたらしい。私はあらゆる楽器の中でチェロの音色が一番好きで、その話を知り合いの声楽家の方にしたら、チェロの音色は人の声に近いから、そこに惹かれるのではないか、と教えてもらったことがある。でも実は、チェロの方が人の声に歩み寄っていたことを知って、興味深かった。

 ただ、本書を読んで、著者がどれほどバイオリンを愛しているかは理解できたが、私自身がバイオリン愛に目覚めたかと問われれば、心許ない。それは、やはりバイオリンの魅力を「魔性」や「霊的」という言葉に集約させてしまった点にあるように思われる。なぜバイオリンが魔性を持ち、ストラディバリウスは霊性さえ獲得したのか、そこに私の興味はあったし、著者もその点に触れてはいる。しかし、最終的にはバイオリンに対する愛が、徹底的な解明の眼を鈍らせているように、私には思えた。

 以前、『とめられなかった戦争』加藤陽子著の感想を書いたときに、次のような文章を引用をした。

近代史をはるか昔に起きた古代のことのように見る感性、すなわち、自国と外国、味方と敵といった、切れば血の出る関係としてではなく、あえて現在の自分とは遠い時代のような関係として見る感性、これは未来に生きるための指針を歴史から得ようと考える際には必須の知性であると考えています。

 ここで述べられている「知性」のあり方は、近代史を見るときにだけ求められるものではないと思った。何かを論じようとするときにも通じるあり方だと思った。

 といって、情熱を持って語ることが悪いというわけではないとも思うので、何かを論じようとするときの態度には、ある種の「魔性」が秘められているのかもしれない。

2018-21 「ない仕事」の作り方

みうらじゅん 著『「ない仕事」の作り方』読了

 みうらじゅん先生によって著されたビジネス書。

 私は三日坊主で、何ごとも長続きしない。どうすれば長続きするのか、その極意を知りたくて本書を手に取った。

人はよくわからないものに対して、すぐに「つまらない」と反応しがちです。しかし、それでは「普通」じゃないですか。(中略)「つまらないかもな」と思ったら、「つま……」くらいのタイミングで、「そこがいいんじゃない!」と全肯定し、「普通」な自分を否定していく。そうすることで、より面白く感じられ、自信が湧いてくるのです。

第一印象が悪いものは、「嫌だ」「違和感がある」と思い、普通の人はそこで拒絶します。しかしそれほどのものを、どうやったら好きになれるだろうかと、自分を「洗脳」していくほうが、好きなものを普通に好きだと言うよりも、よっぽど面白い 

(天狗も)ゴムヘビもそもそも好きだったものではありません。 すべて、「私はこれを絶対好きになる」と自分を洗脳したのです。

*()内、引用者捕捉

映画館で、鑑賞後のエレベーターのあたりですぐに「つまんなかったね」と、一言で片づける人がいます。それは才能と経験のない人です。映画は、面白いところを自分で見つけるものなのです。

私は仕事をする際、「大人数に受けよう」という気持ちでは動いていません。それどころか、「この雑誌の連載は、あの後輩が笑ってくれるように書こう」「このイベントはいつもきてくれるあのファンにウケたい」と 、ほぼ近しい一人や二人に向けてやっています。(中略)私の場合、そんな「喜ばせたい読者」の最高峰は誰かと言えば、それは母親です。

友達の話を勝手に書いてその友達が怒っても、面白いエロ話を書いて昔の恋人が「あれ、私の話?」と問い詰めてきても、母親さえ許してくれれば、そして「おもろいわ」と言ってくれればそれでいいのです。逆に言えば、母親が嫌がりそうなことだけをやらなければいいのです。 

最初に単発の仕事を頼んでくれた編集者がいたとします。当然、自分の何かを面白がってくれたから依頼が来るわけです。だとしたら、自分のやりたいことはとりあえずさておき、その編集者が喜ぶような仕事をしなければなりません。

 仕事でも趣味でも、日々自分自身にノルマや締切を与えて、もう一人の自分が斜め上からコーチしているような気持ちで実行すると、より一層がんばれるような気がします。 

私が何かをやるときの主語は、あくまで「私が」ではありません。「海女が」とか「仏像が」という観点から始めるのです。  

不自然なことをやり続けるためには「飽きないふりをする」ことも大切です。世の中に流行った頃には、とっくに飽きています。そこは人間ですから当然です。ただ、「もう飽きた」といってしまうのは「自然」です。人に「え、まだそれやってるの!?」と驚かれるほど続けなければ面白くなりません。  

すべては「グッとくる」ところから始まります。何かを見たり聞いたりしたときに、すぐに好きか嫌いかを判断できるものは、そこで終わりなのです。好きなのか嫌いなのか自分でもわからないもの。違和感しか感じないもの。言葉では説明できないもの。私はそういうものにグッとくるのです。いつかこの、グッときたものを人に伝わるように具現化したい。それが私の仕事のモチベーションです。 

 「キープオン・ロケンロール」言うは易いですが、やり続けることが大切なのです。何かを好きになるというのは、自分を徐々に洗脳して、長く時間をかけて修行をして、対象のことを深く知ってからでないと、長続きもしないし、人を説得することもできないということです。

 「好きこそものの上手なれ」

 このことわざは、正確ではなかった。

 「好きなふりしつづけてこそものの上手なれ」

 これこそ、みうらじゅん先生が説かれた真理なのです。

「ない仕事」の作り方

「ない仕事」の作り方

 

2018-20 おもいでエマノン

梶尾真治 著(鶴田謙二 イラスト)『おもいでエマノン』読了

 私は漫画やアニメ、映画、音楽などが好きだ。私と同様の趣味を持っている親戚がいる。先日、そのひとから、私の好みに合いそうだいうことで、『おもいでエマノン』という漫画を紹介してもらった。読んでみて、とてもすばらしかった。そして、この漫画には、原作があるらしいことを知ったので、早速、読んでみよう、と本書を手に取った。

 本書は、同名の短編「おもいでエマノン」を含む、8編の短編からなる連作小説だ。この8編すべてに、ジーンズに粗編みのセーター、長髪でそばかすのある、異国的な顔立ちの「エマノン」という美少女が登場する。

 彼女は母親の記憶を受け継いでいる。彼女の母親は、そのまた母親の記憶を受け継いでいる。そして、それは地球に誕生した初めての生命まで遡ることができる。つまり、彼女は、地球上に生命が誕生してから、三十数億年の記憶を持っていることになる。

 要するに、これはSF作品なのだが、「おもいでエマノン」は、いわゆるSFチックな感じではなく、とても文学的な情緒が感じられる短編だった。

 だが、「おもいでエマノン」以外の7篇は、私には、長い蛇足のように感じられた。この感想は、あながち的外れではないかもしれない。本書の巻末に著者と、イラストを手がけた鶴田謙二との対談が載っている。その中で、「僕としては続編を書くつもりはなかったんです。「おもいでエマノン」は、あれで完結しているんで」と、著者自身が語っているからだ。

 「おもいでエマノン」では、生命が誕生して以来の記憶を宿したエマノンだけが特殊な存在として描かれている。彼女以外の人たちは、私たちと同じごく普通の人間だ。だからこそ、エマノンという存在が本当か否かといった、ミステリアスな雰囲気が味わえる。

 ところが、「おもいでエマノン」と「ゆきずりアムネジア」を除く6編には、彼女と同等の特殊能力を持っている人物たちが登場する。

 エマノンの血液を輸血されたために、エマノンと同じ記憶を得た少年。脅威の再生能力を持ち、人の心を読める少年。地球上の生命に進化を促した地球外生命体。エマノンと真逆で、未来の記憶を持った青年。エマノンが動物の記憶を受け継いできたのと同様に、地球に誕生して以来の植物の記憶を受け継いできたアイオンという名の植物。生物を絶滅する危機から救うために時を跳躍することのできる少女。

 彼らが登場した瞬間、物語はSF的になってしまう。「おもいでエマノン」を読み終えたときには、私たちの日常の中に、もしかしたらエマノンがいるかもしれない。そんな気にさせられる。だが、「おもいでエマノン」(と「ゆきずりアムネジア」)以外の短編では、初めから作り話のように感じられ、物語に没入出来なかった。要するに、「おもいでエマノン」とその他の短編では、リアリティ・ラインがあまりにも違いすぎているように思えた。

 もし、エマノンシリーズとしてではなく、それぞれ独立の物語として書かれた短編集だったら、こんなに印象が悪くなかったと思う。それぞれのお話のアイデアは、とても興味深いものだったからだ。つまり、「おもいでエマノン」が、それだけ完成された短編だったということなのです。

おもいでエマノン (徳間文庫)

おもいでエマノン (徳間文庫)

 

2018-19 近現代の芸術史Ⅰ〜欧米のモダニズムとその後の運動

林洋子 編『近現代の芸術史Ⅰ〜欧米のモダニズムとその後の運動』読了

 知識は系統的に学ばなければならない。それが師匠の基本的な教えだった。何かを系統的に学ぶということ。まずは、そのことについての歴史を学ぶということだろう。科学なら科学史、哲学なら哲学史という具合に。

 私は芸術について学びたい。これまにも美術史関連の入門書をいくつか読んできた。本書は、美術史の中でも、特に近現代の美術について取り上げたもの。現代美術については興味はある。でもなにやら難しそうだ。でも、知りたい。そんなわけで、本書を手に取った。

 何でこんなのが芸術なんだろう。頭に「?」しか浮かばないような経験を、美術館ですることがある。20世紀以降の作品にそういうものが多い気がする。「自分の感性が追いついていない」「自分の感性にはあわない」といって、納得してしまいがちだった。

 本書には、20世紀からはじまる藝術の動向がまとめられている。フォービスム、表現主義キュビスム抽象絵画など、20世紀初頭は、藝術の諸要素の中から、例えば形なら形、色なら色と言った一要素を取り出して追求する動きが起こった。さらに、ダダ、シュルレアリスムなど、「藝術とは何か」という命題に真っ向から挑んだ、謂わば哲学としての藝術も起こった。

 そのような根本への問を皮切りに、コンセプチュアル・アートミニマリズムなどなど、多様な芸術動向が誕生した。

 また、20世紀は戦争や革命の世紀と評される。藝術も人間の営みである以上、そうした人間社会の動向と無縁ではありえない。時代の空気、時代というものの影響。そんな視点から、近現代の藝術の流れを見つめる構成にもなっている。

 ときに激しく過去の藝術を否定する。ときに過去の藝術に回帰する。そのように行きつ戻りつしながら、藝術の歴史は綴られてきた。そしてそのダイナミズムは、時代が下るほどに加速していく。これが読み終えてのいちばん大きな印象だ。

 そして、この印象は、決して藝術という分野に限った話ではないだろう、とも思う。あらゆる人類の歴史がこのようなパターンで綴られてきたのだろう。そんな歴史の普遍性をも思った。

 今まで馴染みがないから、「?」で終わることが多く、いまいち興味が持てずにいた現代美術の印象が、大きく変わった。こんなに面白かったのか!!そう思えたことが、今回の読書体験の、最大の収穫だ。

 本書は「芸術教養シリーズ」の第7巻にあたる。このシリーズは、「芸術大学の新入生を読者として想定していると同時に、社会人にとっての教養の糧になることも念頭に置いて作成されている」とのこと。Ach!まさに、私のような人間のための一冊だ!とても勉強になったし、このシリーズの他の巻も、今後、読んでみたい。

2018-18 正しい保健体育Ⅱ〜結婚編

みうらじゅん 著『正しい保健体育Ⅱ〜結婚編』読了

『正しい保健体育』の続編。『正しい保健体育』は、主に思春期の過ごし方について書かれていたけれど、本書は結婚生活について書かれている。読んだのは今回がはじめて。

 本書にも本当のことが、たくさん書かれていた。未だに自分塾での勉強が終わらない私には、耳に痛いことも多かった。

 その代表例をば…

『正しい保健体育』では、童貞はこじらせたほうがいいと教えてきました。そのほうが優しさと創造力を育むからです。

 昨今、この教えが曲解されて、「こじらせること」に重点が置かれるようになってしまいました。(中略)

 そうではないのです。「こじらせて」「治す」ことが大事なのです。「こじらせて」「遠回りして」「戻ってくる」のが重要で、そこでかつての自分を思い出して笑う余裕を持たなければならないのです。

 他の誰でもない、みうらじゅん先生がこう仰せなのだから、私も私を笑い飛ばせるくらいの器に作り上げていかなければならんでしょう。またひとつ大切なことを学ばせていただきました。

 

2018-17 正しい保健体育

みうらじゅん 著『正しい保健体育』読了

 読むのは今回で4度目くらいだろうか。

 私は本書を、数少ない「本物の名著」だと思っている。なぜ、本書は「本物の名著」なのか。それは、本書には、「本当のこと」が記されているからだ。

 「本当のこと」は、しばしば耳に痛い。「本当のこと」は、しばしば都合が悪い。だから誰もが巧妙に、「本当のこと」を隠している。例えば知人の個展に招かれたとしよう。正直に感想を言えるだろうか。“世界にひとつだけの花”なんて、「正しいこと」を持ち出して誤魔化したりしないだろうか。「正しいこと」と「本当のこと」。はじめは両者を切り分けているつもりだ。でも「正しいこと」は気持ちいい。誰も傷つけないから。誰からも責められないから。そして、「正しいこと」で包み隠すことが上手になりすぎると、だんだん「本当のこと」が見えなくなる。瞳、それ自体が曇ってしまうから。

 人によっては、本書をふざけた一冊だと思うだろう。下ネタが満載で、それだけで嫌厭するひとも多いかもしれない。本書の冒頭部分を引用してみよう。

 もともと男子は、金玉に支配されるようにできています。

 金玉というのが本体で、その着ぐるみの中に全部入っているのが、人間の男なのです。

 本書は全編こんな感じの「悪ふざけ」や「下ネタ」でできている。でも、外身に騙されてはいけない。その奥には「本当のこと」が記されている。「本当のこと」って「大切なこと」のはずだ。「大切なこと」をないがしろにしていいはずはない。上記引用のあとにはこんな文章が続く。

 いつのまにか進化した人間は、その「金玉の着ぐるみ」からはみ出した部分が大きくなってしまいました。しかし、はみ出したとはいえ、その大本にあるのが金玉であることにはかわりありません。

 ですので、そのはみ出した部分を「義務教育」でうめて、金玉に支配されないようにしているのです、義務教育とは「支配からの卒業」なのです。

  これって「本当のこと」だと思いませんか?

 薬はしばしば口に苦い。だから飲みやすくするために糖衣で加工する。「本当のこと」は耳に痛い。都合が悪い。だから受け取りやすいように、本書では「悪ふざけ」や「下ネタ」で加工されている。甘いけれど、それは薬だ。ふざけているけれど、それは「本当のこと」だ。瞳が曇ってくると、私は本書を読み返したくなる。王様の耳はロバの耳だってことを、ときどき再確認するために。

(前略)健康診断は嫌なものです。採血したりバリウムを飲んだり、そんなことを好き好んでやる人などいません。

 それでもなぜ、健康診断をうけなくてはならないか。それは「大切な人のために」なのです。

正しい保健体育 (よりみちパン!セ)

正しい保健体育 (よりみちパン!セ)