何冊よめるかな?

本棚の肥やしと化した本たちを供養するため始めたブログ

2018-31 映画を作りながら考えたこと

高畑勲 著『映画を作りながら考えたこと』読了

数年前「かぐや姫の物語」公開記念として、テレビで高畑作品が放映された折に「ぽんぽこ」と「おもひでぽろぽろ」をあらためて観た。ジブリ作品を観るのは実に久しぶりのことだった。それまでどちらかといえば宮崎駿作品の方が好きだったが、そのとき決定的に印象が変わった。高畑勲の世界に圧倒された。そこにいるのは「キャラクター」ではなく「人間」だと感じたからだ。

今年4月、高畑勲が鬼籍に入った。それであらためて高畑勲の頭の中を知りたくなって本書を手にとった。

本書は題名通り、著者が(ジブリ以前の時代に)さまざまなメディアに記したり語った「アニメ作品をつくりながら考えたこと」を一冊の書籍にまとめたものだ。

一言でいうと、自然主義というのか、リアリズムのひとだったのだろう。私たちの生活、足下の生活のなかにある豊かさを見つめるまなざしを持ったひとだった。本書を読んでそう感じた。

それは特殊な才能に恵まれた英雄によって綴られる歴史ではなく、畑を耕し、村娘に恋をし、日照りのときは涙を流し、みんなにデクノボーと呼ばれる私たちの歴史を見つめる視点だということだ。

それは私たちに対する信頼だ。

それはどの瞬間も蔑ろにするまい、という生き方の宣言だ。

誰にとってもあたりまえのこと、「生活」という言葉の中に一括りにされてしまうことのなかに、映画を発見し、しかもアニメ作品にするということは、並大抵のことではないだろうとも思った。

著者は徹底的に人間を見つめようとするまなざしの偉大さに気づかせてくれた。それは私たちオール・ヤング・凡夫スに、とても心強い生の根拠を与えてくれるものだ。私もそのようなまなざしで世界をみつめられたら、と思う。

また、何かを見たり、聞いたりしたときに、それが善いとか悪いとかすぐに判断せずに、なぜそういうふうになっているんだろう、そのように表れてきたのには何か意味があるんじゃないか、と考える姿勢の大切さにも気づかせてもらえた。

とても充実した読書体験だった。

 

 

2018-29,30 美学への招待

佐々木健一 著『美学への招待』読了

私はビートルズがよくわからない。いや、普通に好きだし、かっこいいと思う。しかし、音楽雑誌や私の周囲の扱いをみていると、ビートルズは他のロックバンドとは一線を画すもののようだ。ロックの歴史を考えたときに、特別な位置を与えられるべきバンドだというのならわかる。しかし、そういうノスタルジーだけでなく、今でも若い人たちの心をとらえ続ける特別な魅力があるらしい。その特別なマジックの部分が、私にはわからない。私にとっては、ジミヘンやドアーズ、ブルーハーツあぶらだこの方が特別な突き刺さり方をするからだ。

そんなわけで、あるとき、私には音楽的センスがないと結論づけた。私の周囲の、私なんかよりよほど音楽に詳しい人たちがこぞってかかっているらしいビートルズのマジックに、私はかかれないのだから。

ビートルズ問題はこうして無理矢理決着をつけたのだが、ビートルズに限らず、世の中の大概のことで、好き嫌いが分かれる。それは考えてみれば不思議なことでもある。

昔、大学の講義で「花を見て美しいと感じるとき、その美しさはどこにあるのか」という課題を与えられたことがあった。意見は大きく分けて、美は外在する(花の側にある)派と内在する(美しいと感じる心の中にある)派に分かれた。この講義がどのように締めくくられたのか、全く憶えていないが、もともと芸術に興味があった私は、それからも時々、「美」について考える癖がついた。

ロンドンオリンピックのときだったか、卓球の石川佳純選手がまるでストⅡの春麗のようにピョンピョン飛び跳ねて、勝利を噛みしめるという場面があった。たまたまそれを観ていた私にも、何だかグッとこみ上げるものがあった。大仰に言えば、その姿は美しいなと感じた。そのとき思った。しかしながら、私はいわゆる萌え的な媚びるような仕草はあまり好きではない。そういう仕草の中には、葉蔵が指摘されたところの「わざわざ」と同じ臭気を嗅ぎ取ってしまう。石川選手の勝利の仕草は、それだけを取り上げれば春麗のアクションに採用されるくらい、媚態であったにちがいない。しかし、私はそこに臭気を感じなかった。それは思わず知らず溢れ出したスッピンの動作だったから、私にも彼女の勝利の喜びが、混じりっけなしに伝わってきたのではないか。そんなふうに考えた。

それで、私は私なりに「美」を定義した。あらゆる作為から独立して在ること。なかなかよさそうに思えたが、この定義ではいわゆる芸術作品の美しさは説明できない気もした。あらゆる作品は何らかの意図(作為)を以て制作されるものだからだ。そのへんのモヤモヤを解消したくて本書を手にとった。

本書は大変おもしろかった。ここ10年位の間に急増してきた、論文をかき集めてまとめただけで一冊できました的な新書ではなく、著者の血の通った言葉で、しかも読者に届くようにと配慮された言葉で綴られた新書だ。著者自身が格闘した知の痕跡が随所に感じられる名著だと感じた。

あまりにおもしろかったので2回読んでみた。2回目は久しぶりノートを取りながら読んだので、今回は、感想に変えてノートをここに残すことにする。

 

『美学への招待』ノート

 

 

・センス…全体的かつ総合的な判断力

 

・下級感覚…嗅覚、味覚、触覚

 →接触することで機能する

・上級感覚…聴覚、視覚

 

・言語(特に初期のもの)は五感の延長

 →「逃げろ」「集まれ」など

 

・芸術…各感覚のうちのひとつを特に限定して使うもの

 →絵画=眼、音楽=耳、詩=言語

 →「芸術」とは感覚を非身体的に用いることと云える

 

・美学…美と芸術と感性についての哲学的な学問

・18C(近代)の美学は特に「芸術」に重きをおいて展開してきた

 

・museum…博物館 / 美術館

→教育を含む知的活動のための原物資料の収集と展示を行う施設

→「原物」という点で図書館と異なる

 

・原物資料の内…

  美術品を収蔵するところ→→→→→美術館

  それ以外の資料を収蔵するところ→博物館

               という区分が一応ある

 

・「ミュージアム」…これまで芸術とは見なされてこなかった周縁的な現象を芸術に近づけ、芸術

          に近づけ、芸術とクロスオーバーさせるという意味合いを持っている

→逆に伝統的な芸術領域が崩れつつあることを示唆している

 

・芸術の範疇…文学、美術(絵画、彫刻)、音楽

→近代になって定着した概念

 

・タイトル…作品をしかじかのものとして見よ、という命令.作品の解釈への方向づけ

→作品がひとつの精神性を持っていることを前提としている

 

・アート…それまでの「芸術」とは異なる基軸を持ったものという意図が含まれる言葉

→しかし、西洋では「芸術」も「アート」も「art」であり、区別されない

 

・1950頃には、芸術を一つの概念として定義することは不可能になっていた

→ネルソン・グッドマン:「〈artとは何か〉という問いは、もはや成立しない。〈いつartか〉と

             う問いが正しい問いである」

 

 

・近代になり、芸術は「作品」になるとともに「商品」になった

 

・作品…独特の精神的な内部を持ち、その内部ゆえに作者と絆をもち、ある程度まで人格と似た

    ような在り方をしている個性的な作物

 

・科学技術が生み出したコピーという存在は、〈何が正しい鑑賞法か〉という問いを生み出した

 

・複製…①マスプロダクションとしての複製(複数化)…映画など

    ②オリジナルのコピーとしての複製………………印刷など

 

ベンヤミン:『複製技術時代の芸術作品』

 

・複製により貧困層にも芸術が普及するようになった

 

「音質の悪いライブ」と「音質の良いCD・DVD」では、どちらが芸術鑑賞として質が高いか?

 

・本物の『モナ=リザ』などを観て「これ知ってる!」と喜ぶのは再認の喜びである

→われわれの経験の上では、複製されたものを通しての経験の方がオリジナルとなっている

・われわれの経験は複製からはじまり、その後にでオリジナルに接することが多い

・われわれの経験の中で、直接体験が最初に来るケースはほとんどない(旅行など)

 

・複製を否定することは、現代においては文化を否定することに等しい

 

・high fidelity:高忠実度

→オリジナルと質的に等価な複製

 

小林秀雄の体験

→“モオツァルト”の曲が、突然頭の中で鳴った。その直後レコードを聴いたが、頭の中で鳴ったモ

 オツァルトの方が凄まじかった

 

・オリジナルの経験が必ずしも優れているわけではない

→コピーでの体験だからといって、その体験で得られた感動がニセモノであるとはいえない

ニセモノの芸術体験は可能か?

 

・美意識…芸術作品を体験しているときの意識のなかで起こっていること

→心の中で起こることが問題なら、オリジナルか複製かという違いは、体験にとっては第二義的

 な意味しか持たない

 

・複製の体験は個人化し、体験の様式は自由的なものになる

 

・西洋近代の芸術制度は、美術館とコンサートホールに代表され、このいずれもが公共的体験の

 場所である

 

・拍手は体験の共同性を確認する行為

 

和辻哲郎『人間の学としての倫理学

 

・ひとは社会的な存在で、交わりを欠くとき心を病む

→複製に伴う自由的体験はその傾向を助長している可能性がある

・オリジナルの持つ公共性は社会の健康を回復させるはたらきがある

 

・パブリック・アート…古い芸術にも同様の様式はあるが、「公共」という意図/問題意識を持っ

           た点が斬新

→芸術の公共的な在り方が時代の課題として注目されていることを物語っている

 

・単語の持つ「意味」の側面を概念と呼ぶ

・概念の内容…単語の意味の成分を分析的に取り出したときのその集合

・概念…①個人的な概念

    ②集団的な概念≒common sense

 

・近代の「芸術の概念」…文学・演劇、美術(絵画・彫刻)、音楽の総称

 

・「似ているということ」と「似ているものを一括するということ」は異なる

 

・aesthetics:美学

→aesthetic:美的、感性的

美的…美的範疇(優美、崇高など)を含める言葉

感性的…美的概念(醜悪、下劣など)を含むことができる言葉

 

・美、美的(美的範疇)、感性的(美的概念)は同心円状に並ぶ

 

・美的=芸術…芸術家が担った概念

・感性的=アート…芸術家以外(例:アスリートなど)も担うことができる概念

 

・芸術→アートの動きは芸術の退廃に通じる?

 

・スポーツの脱倫理化(心身鍛錬としてよりもパフォーマンスとしてのスポーツ)

・芸術の脱artistic(技倆)化

→共に感性的なものへと向かう動き

 

・スポーツはパフォーマンスの芸術とみなせる

→演劇、音楽、舞踊などと同じ

 

・スポーツ≒アート、アート≒芸術のとき、スポーツ≒芸術が成り立つ

 

・有形のもの=素材(質料)+かたち(形相)

 例)レンガ =  土  + 長方形

    家  = レンガ + 家の形

→  ひ と = 肉 体 + 精神

 

ギリシア思想とヘブライ思想(キリスト教)→西洋思想の源流

・質料と形相という考え方は、ギリシアにもヘブライにも共通の考え方だった

 

ギリシア思想

→アート(技倆)①高級…体育

        ②低級…肉体労働、造形芸術(手(肉体)による仕事)

・日本でも肉体の芸術である歌舞伎などを「河原者」と蔑んでいた

 

・遠近法の精神…画家に純粋な眼であることを要請する→デカルトの二元論(心>身)

メルロ=ポンティ:見ることの身体性を重視→反デカルト

 

・TVゲームをしているとき、画面に合わせて体が動く

→ある特殊な状況においては、眼で観ることは眼球だけでなく全身を巻き込む

→平静に観ているときは「平静なあり方」として身体は巻き込まれているのかも

 

・世界的存在…相互に同じ高さで混じり合う人びとの結びつき。また、自然や都市の環境との関

       係にしても水平的に関わる世界観に根ざした考え方

 

福音書…イエスの地上における仕事を記述したもの

 

地動説

天動説

水平的関係

垂直的関係

自然に対して対等な身体感覚

自然(宇宙=神)に対してちっぽけな私

近代的

前近代的

 

・庭園は建築とともに身体的な鑑賞法を要求する芸術ジャンルである

→単に見るだけでなく、その中を散策することを要求されるってこと?

 

・ジラルダン:「庭園とは風景の構成である」

 

・曲がりくねった小径を歩き、暗い空間から明るい空間へ(あるいはその逆)出るという体験は、身

 体の拡張(あるいは収縮)であり、色調の変化は心理の拡張(あるいは収縮)であるといえる

 

・リズム…身体的なもの。身体がそれに乗って動いてゆくような時間秩序

→呼吸

 

・遠近法に代表される近代の芸術は身体感覚を喪失している

→身体を単なる物体とみなすデカルト哲学と相関すると思われる

 

・近代美学の主要論点に「観賞論」がある

→正しい観賞の態度として「美的態度」が説かれた

・美的態度…行動と結びつかず、ひたすら観賞的な態度

静物画のリンゴを食欲の対象としない。悪役の俳優に殴りかからない

 

言語ゲーム…未知の言語であってもその言語は何らかのルールに則っている。ゆえにそのゲーム

       に参加していると、そのルールが次第に習得できる

 

・美的態度は、しかし《泉》には対応できない

 

不条理演劇の代表的な作家

→サミュエル・ベケット、ウジェーヌ・イヨネスコ

 

・不条理:absurd(英):「バカバカしい」の意

 

・現代美学は作者の意図とは無関係(作者の意図は重視されない)

→作品自体がもつ固有の「意図のようなもの(in-tension)」のほうを重視する

・in-tension…作品の内部にみなぎる独特の緊張

 

・作品のin-tensionを捉えることは言語ゲーム的である

 

・近代において芸術品は作品であると同時に商品でもある

→商品の側面は作家も観賞者も見ないふりをしている

→ウォーホルは商品的側面に光を当てた

 →美術概念への挑戦

 

・再現型の美術においては、その像を保存し、伝えるに値するようなものが美術的に再現される

→つまり、そもそものモチーフ自体が美術的に表現する価値を持っている

 

・《ブリロ・ボックス》

→作品の美的品質は問題ではない

→作品が哲学的な問題提起をしていることが重要

 

・芸術の終焉:ダントー

→「ここで芸術は知覚されるべきものから考えられるべきものになった。(略)芸術は哲学になり、

  その歴史的な使命を終えてしまった」

 

・現代の芸術

→一面で知覚的な探求の領域を広げながら、他方で哲学的な(=美学的な)次元に入っている

→「芸術史を識らなければ、芸術はわからない」:ダントー(「アート・ワールド」)

 

・歴史の中でさまざまな表現が試されてきたために、芸術の選択肢が狭くなってきた

・文化の中で芸術は「制度」とも呼べるような安定性な位置を獲得してきた

→こうした状況へのカウンターとして《泉》や《ブリロ・ボックス》の出現

→純粋に観て楽しむ芸術ではなくなった(現代芸術の誕生)

 

ダントーにとって《ブリロ・ボックス》は、芸術と非芸術(普通の存在物)を分けるものは何か

 という問いの結晶化したものであった

→しかし、「わたくし(著者)」にとっては既に知られた問いに対する図解に過ぎない

 

・巨匠たちの作品…観るたびに感銘を与えてくれる「永遠の芸術」

・ブリロ・ボックス…歴史的ドキュメントのようなもの

ギリシア彫刻は永遠の芸術?芸術作品として優れている?それとも歴史的に貴重な遺品?

 

・近代美学は「永遠型の芸術」をモデルとして構築されてきた

・永遠型の芸術…感性的な像の中に思想的なものを込め、精製した像によって魅惑するとと

        もに思想も現出させる

→こうした像の力を「美」と呼んだ

 

・近代の芸術…永遠型の芸術、感性の芸術

・現代の芸術…問題提起型の芸術、観念の芸術

 

・革命的な新様式は観賞者の知覚を変革する

→更新された知覚は、かつて目新しかった様式の作品も受け入れるようになる

 例)クールベのリアリズム、印象派

・しかし、《ブリロ・ボックス》(=問題提起型の芸術)は知覚ではなく観念の変革であった

→観念は一度理解されれば、もはや知覚装置を必要としない

 

 

・分析美学の主要テーマ…芸術の定義

→永遠型の芸術と問題提起型の芸術を同時に満足させるような定義は難しい(不可能?)

・そこでダントーは「何が芸術であるかはアート・ワールドが決める」と定義した

・アート・ワールド…芸術に携わる専門家の集合体(芸術家、評論家、学者、ジャーナリスト、

          学芸員など)

・この定義は、民主主義のプロセスに似る。あるいはギルド・モデルに似る

・ギルド・モデル…一般社会から独立した独自の支配権を認められているミクロな社会

 

・問題提起型の作品…主にギャラリーで扱われる

・永遠型の作品…主にオークションで扱われる

 

・芸術においては古典が好まれ現代が軽んじられる傾向がある

→この傾向の一因として美術館の設立が挙げられる

 →美術館…コレクション(主に古典)にいつでも会える

  →古典への親しみが増す

 

・アカデミー・ザ・ボザール:ルイ一四世が設立

 →画家や彫刻家の団体。教育機関でもあった

 ・17Cより展覧会開催

 ・18C中頃より定着@ルーブル宮のサロン・キャレ(「方形の間」)

  →通称、「サロン展」

   ・一般にも無料公開

   →当時の人びとは最先端の美術に親しむことができた

   →今の映画やポピュラーソングのような状態だった

   →最先端の美術を扱うアカデミーの中から革新的な表現が生まれていた

 

・古典の人気、現代の不人気という状況は、言ってみれば不自然

→不自然な状態を生み出すには何らかの思想が必要

 

ルネサンス様式…一様な光が画面全体を支配している

バロック期………劇的な陰影の効果(カラヴァッジョ、レンブラント

 

・現代芸術における「新しさ」は芸術のイデオロギーによって要求されるもの

→作家自身が表現の必要からたどり着くものではなくなった

 

・新しさ…創造性のしるし。芸術にとって何よりも必要なこと

 

・手ではなく精神の創造性が問題になるなら、論理的な裏付けが必要になる

→近現代では「芸術論=美学」的な新しさを重視

 →19C以降の優れた芸術家の多くは独創的な芸術論の著者でもある

 

・「芸術」…西洋近代において成立した芸術概念を古代や異文化の世界に適用したもの

→例)仏像は芸術作品としてつくられたものではない

・西洋近代において成立した芸術概念…実用的な目的を持たず、特に現実世界の模倣であり、背

                  後に精神的な次元を持ち、それを開示することを真の目

                  的とした活動

→つまり、作品には背後がありその背後こそが作品を芸術たらしめるってこと

→主役が作品から作者へ移る

 ・文学作品

  ・まず単行本(装丁バラバラ)→その後、全集(装丁統一)

   →全集…作者という概念の下に統一される

 

・理論と一体化した芸術=芸術の自己意識化

 

・このような概念があるため、芸術の理解には精神(背後)の変遷の理解が必須

→芸術史が必須

→ただし、こうした概念は近代以降に成立したもので、歴史的に普遍的なものではない!!

 

・「うつくしい」…「いつくしむ」の派生。可愛らしいものの形容

・「美」…生贄の羊が大きい様子。立派なもの、見事なことの形容

→「うつくしい」に「美」という漢字を当てたことには、少しズレがある

 

・見て直ちにわかる「善さ」=「美しさ」

 

・何かを作るときには、普通「美しい」結果を求めて作業する

→しかし、設計図通りに造りあげても、それが美しいかどうかはわからない

 →つまり、美は設計図の外にあるもの

・美は作り出されるというより、恵みとして与えられるもの!

 

・既成の価値観が崩壊したとき、ものの善し悪しは「美」によってしか測ることができない

 

・transhuman超人間…人間中心主義という近代文明の本質を批判の対象とする概念

 

・人間中心主義

 ①人権宣言…神という超越的な調停者なしに人間同士が協調して生きてゆくための基礎哲学

 ②産業革命…人間の生活の安寧を図るための運動の狼煙であり、自立した人間の創造力が向か

       う大きな目標

 

・文明と自然

 ・文明…素材を変革する計算的理知において敏捷なもの

 ・自然…素材を変革する計算的理知に無関心なもの

 

・transhumanとは、人間が自然の一部であることを再認識すること、及び人間以上に偉大なも

 のが存在することをわきまえること

 

・近代美学=芸術哲学=近代文明そのもの

→「自然模倣」という前近代の理念を捨てることで得られた理念

 

・transhumanの美学は自然の美を見据えるもの

→芸術美でさえ計画して得られるのではなく与えられるもの

→人間の力は美に届かないことを知れ!?

美学への招待 (中公新書)

美学への招待 (中公新書)

 

2018-28 諸星大二郎の世界

コロナ・ブックス編集部 編『諸星大二郎の世界』読了

まえがきによれば、本書は「その圧倒的画業の変遷と、作家自身の深層を掘り下げることを目的として作成」された一冊である。諸星の作品群を「古代」「民族」「東洋」「南方」「西洋」「日常」という六分野に分け、それぞれに考古学者、民俗学者文化人類学者など各分野の専門家による諸星作品の評が掲載されている。

本書は150ページに満たない薄手の本で、ビジュアルブックとしての性質も担わされているため、内容的にそこまで「深層を掘り下げる」ことに成功している印象はない。ただ、これは私が本書を購入した理由でもあるが、諸星の書斎の本棚の一覧は興味深かった。

私は未だに、知人の家などに遊びに行くと、そのひとの本棚やCD棚?に眼が行ってしまう。インターネットがインフラになった現代においても、そのひとの脳髄を形成する養分の多くは、紙媒体の活字から吸収されていると、私は思う。思いたい。つまり、本棚を見ればある程度はその人となりが判断できると思う。思いたい。

本棚よりもスマホのアプリ一覧を見せてもらったほうが、その人となりを占う近道になる時代はもう迫っているのかもしれないが、人類という種のレベルで見れば、まだまだ知のアーカイブ量は、紙ベースのものが圧倒的に多いと思われるので、そのひとがどのような養分を吸収してきたか、あるいは吸収しようとしてきたかは、本棚に顕れると思うのだ。

果たして、諸星大二郎と私の本棚の内容は掠る程度しか一致をみなかった。ほんの十冊程度しか共通の本を持っていなかった。それほど違った脳髄を持った人物なのに、諸星の作品に私は強烈に惹かれる。それは本書で諸星評をしている識者たちに共通する見解でもあるが、おそらく「未分化性」に惹かれるからだと思う。

「私」と「あなた」「この世」と「あの世」「現在」と「過去」「現実」と「夢」それらには明確な境界があって、「私」は「この世」の「現在」を「現実」のものとして生きている。一応そういう共通了解のもとで、近代以降の文化は発展してきた。私たちはそういう基盤のうえに、一応安定的な生活をしている。だが、諸星作品を読むと、そういう生活の基盤が曖昧なものに感じられる。「私」と「あなた」「あの世」と「この世」…それらは実は明確な境界など持たず、未分化で渾然一体となった全体として在る。

がん細胞を「敵」として割り切れないように、私たちは割り切れない全体をこそ生活の基盤に据えなければ、いつか破綻せざるをえない。渾然一体たる全体の世界。それこそが諸星大二郎の世界なのではないか。そんなことに思いを馳せた読書体験であった。

 

2018-27 がん哲学外来へようこそ

樋野興夫 著『がん哲学外来へようこそ』読了 

母に膀胱がんが見つかった。死に至る病であるがんとどう向き合えばいいのか。そんなヒントを求めて、本書を手にとった。前回の立花隆 著『がん〜生と死の謎に挑む』の中で著者のことを知った。

これは新潮新書全般に言えることかも知れないが、内容はごくごく一般の読者に向けられたものだった。読んでいて心が軽くなるような、著者の患者に対する温かいまなざしは伝わってきた。だが、少し物足りなさも感じた。

この物足りなさは「がん哲学」というネーミングに起因するものかも知れない。ここでの「哲学」は「人生訓」や「考え方」という意味合いが強いだろう。それは一般的な「哲学」のイメージで、哲学者の本格的なそれとは異質なものだ。

ただ、本書においては「哲学」とは「人生訓」や「生き方」というライトな意味でいいのかも知れない。「がんと診断されると、それまでに培った経験則や哲学なんて吹っ飛んでしまうものです」と著者は言う。それは本当にそのとおりだと思う。

「死」が現実味を帯びてきたとき、世界の見え方は一変する。しかし、その変化はおそらくどのような哲学によってもシュミレーションできるものではない。当事者以外にとっては、その変化はフィクションでしかないからだ。フィクションに意味がないとは思わない。ただ、「死」に関してだけは「リアルよりリアリティ」という甲本ヒロトの名言も敵わないだろう、とも思うのだ。

本書の趣旨を一言でいうと、がんと診断されても、それで人生が終わるわけではない。死の瞬間まで生は続いている。その瞬間までどう生きるかを問うのが、がんという病だということだ。今回、母を通じて、自分のことのようにがんという病をシュミレーションしたわけだが、いざ自分のことになったとき、私はどのように動揺し、受容するのだろうか。そんなことに思いを馳せた。

がん哲学外来へようこそ (新潮新書)

がん哲学外来へようこそ (新潮新書)

 

2018-26 がん 生と死の謎に挑む

立花隆 著『がん 生と死の謎に挑む』読了

先日、母が血尿を出した。病院にて膀胱がんとの診断が下った。

本書は以前、母が別のがんで手術を受ける前に、一度読んだのだが、そのとき著者が膀胱がん患者であることが記されていたことを思い出し、改めて再読することにした。

本書は大きく2部構成になっている。

前半は「がんとは何か」という問いに対する最先端(2010現在)の知見が紹介されている。がんが死に至る病である以上、「がんとは何か」という問いは、「生とは何か」あるいは「人間とは何か」という問いにまで行きつく。そして、その問いに対する著者の考えは、がん患者を家族に持つ私の心を少し穏やかにしてくれるものであった。

後半は著者自身の闘病体験を綴ったものだ。母が同じ病気ということで、後半もとても参考になった。

本書のキーセンテンスは「がんは遺伝子の病気である」というもの。そして、私たちの個性を生み出している遺伝子の病気であるだけに、がんは一人ひとり異なった個性を持っており「安易な一般化ができない病気である」ということにもなる。

今回、再読してみて、繰り返し読むことの大切さを実感した。完全に忘れてしまっている部分がたくさんあったのはいつものことだが、読み違えたまま記憶している部分も結構あった。「本は最低でも3回は読まないと読んだことにはならない」とは誰の言葉だったか失念したが、本当にそのとおりだと思った。

 

また、著者のことを批判的に取り上げる文章を眼にすることがある。私のような浅学の輩には、本当のところは知れないが、一つだけ確実なのは、著者の文章はとても読みやすいということだ。当ブログにも再三記しているが、私はどうやら頭のよいひとが好きらしい。そして、私の求める「頭のよさ」とは、「自分の考えていることを、相手に伝わるように言語化する能力」だ。そうした観点で眺めると、著者の文章は、非常に「頭のよい」文章だと感じられた。

がん 生と死の謎に挑む (文春文庫)

がん 生と死の謎に挑む (文春文庫)

 

2018-25 埴谷雄高は最後にこう語った

松本健一 著(聞き手)『埴谷雄高は最後にこう語った』読了

 埴谷雄高の書くことは難しい。埴谷雄高の語ることはおもしろい。

 本書は埴谷雄高が鬼籍に入る、およそ二年前に行われたロングインタビューを書籍化したもの。難解な形而上小説『死靈』の理解の一助になれば、と思い手にとった。インタビューというか、ほとんど対談のような雰囲気すらある。(インタビュアーが長く話して、インタビューイーが一言しか話さないなんてこともままあるw)

 本書を読んで、今回もっとも強く感じたのは、埴谷雄高の思考の柔軟さだった。松本は、本書を次のような文章で書き始めている。

埴谷雄高は、歴史としての現在に生きることをやめ、みずからの思考実験のなかにのみ生きようとした。 

 「思考実験」(埴谷自身のことばを借りれば「妄想」)の効用だろうか、とても齢八十を超えた老人、死を間近に控えた老人とは思えないような、思考の柔らかさを感じた。

 これは本書の締めの部分からの引用になるが、「理想を持つだけでは駄目で、それを(一生)持続しなければならない」という埴谷に対し、インタビュアーが「戦後生まれの最近の若者は理想自体を持たないことが一種のファッションになっているらしいが、そういう時代は生きづらいか、それとも勝手にやってくれと思うか」と訊ねる。すると、

 いや、勝手にやってくれとは思わない。私達の社会生活には必ず波があって、どういう時代にも、いわゆるロマンティシズムとリアリズムの交代のように、理想主義と現実主義の流れの高低もまた絶えずあるわけで(中略)私達の精神はその両方ともを持っているんですね。

 ですから、今の時代がどうあっても、そういうことは全然気になりません。人類の歴史を見れば(中略)絶えず理想が破られて、次の生活密着の時代が続いてゆく。理想が破られた時代のほうが数倍も長いんです。

 (中略)

 すべての時代の標識は長いか、短いかだけで、やがては変わりますね。

 実生活を捨て、妄想の中に引っ込むことで、埴谷雄高は、物事を近視眼的に捉えず、永遠というスパンで捉える(少なくとも捉えようとする)視座を得たように思う。長く生きていると、人生の差異よりも反復の方に眼がいくようになる気がする。「これこれこういうときは、たいていこういうもんですよ」それを「知恵」と見ることもできるけれど、「先入見」とか「決めつけ」と目することもできる。永遠というのは終わりがない。終わりがないから最終的な結論というものがない。性急に答えを出さず、いつまでも傍らに置き、いつまでもああでもない、こうでもないと考え続けるちから。それが埴谷雄高の魅力のなのかも知れないと感じた。

埴谷雄高は最後にこう語った

埴谷雄高は最後にこう語った

 

2018-24 生命に部分はない

A・キンブレル 著、福岡伸一 訳『生命に部分はない』読了

 訳者の前著『生物と無生物のあいだ』『世界は分けてもわからない』を読んだことがあり、いずれもとても面白かったので、本書も気になって手にとった。

 「動的平衡」に関する内容かと思って読み始めたが、そこに通じるものではあるものの、主たる内容は生命倫理に関するものだった。

 今回は長くなりそうなので、最初に断っておくと、私は本書をおすすめしない。理由は簡単で、本書は500ページを優に超える分厚い本だからだ。分厚い本は読むのが大変なので、おすすめはいたしません。でも、こういう本はたくさんの人に読まれるといいな、とも思う。

 本書の原題は「the human body shop」だ。「human body」と「body shop」の合成語だ。人体を各パーツに分けて、まるで自動車修理工場で扱われる機械部品のように見なす生命科学や現代医療を批判的に論じた一冊。

 本書で扱われる“部品”は、血液、各種臓器、精子卵子、子宮(代理母)、胎児、細胞、遺伝子だ。これら一つひとつに対して、具体的な事例(判例や科学者の発言など)がたくさん取り上げられている。

 本書はpart Ⅰ〜Ⅳから成り、全23章で構成されている。もし時間はないけど、ちょっと気になる、というのなら、自分に関心のある箇所(例えば「生殖医療」)とpart Ⅳだけを、とりあえず読んでみるだけでも、著者の意図はかなり理解できるはずだ。part Ⅰ〜Ⅲは、“各部品”についての事例が挙げられ、part Ⅳで、なぜ私たちの社会は人体を部品のように扱うようになってしまったのか考察されている。

 『ゴールデンカムイ』の第2巻で、アイヌの娘アシリパさんが「私たちは人間の力の及ばないものを“カムイ”と呼ぶ」みたいなセリフを言うシーンがあった。アニミズムというか、これは素朴な自然観・生命観だと思う。私もこのセリフに一脈通ずる生命観を持っていた。生殺与奪の権を持っているのは“カミサマ”だけという素朴な生命観を。

 この程、私の友人が、病児や障害のある方の支援をされている女性と婚約した。彼女に会ったとき、出生前診断についてどう思うか訊いたことがある。以前、出生前診断を扱ったNHKのドキュメンタリーを観た。その番組によると、ある医療施設では、胎児に深刻な遺伝子疾患があると診断された両親の、およそ8割が人工中絶を選択するというデータが紹介されていた。病気を持って授かった我が子をどうするか。とても苦しい選択を迫られたある母親の姿が印象に残っている。自分がもし当事者だったら、と考えずにはいられなかった。そして、先述の素朴で、ある種、理想主義的な私の生命観に照らせば、生殺与奪の権は私たち人間の側にないのだから、私は授かった生命は大切にしたいと思った。そのことを障害のある方たちと実際に接している彼女に訊いてみたかったのだ。

 果たして、彼女の答えは「中絶すると思う」とのことであった。現実を身に沁みて知っているからこその彼女の選択に、考えさせられるところがあった。理想主義的な自身の生命観に見直しを迫られたような気がした。

 本書は、生殺与奪の権をどこまで“カムイ”に属するものとするか、を問うている。

 例えば、「死」についてみてみることにすると、古典的な「死」の定義は心拍動停止、呼吸停止、瞳孔散大・対光反射の消失だ。この三徴を以て、医師は死を宣告してきた。しかし、1960年代の終わりに生命補助装置が登場して、人工的に呼吸・循環機能を維持することが可能になった。すると、脳のすべての機能が失われた場合でも、生きながらえることができるようになった。こうして「脈打つ死体」から、いつ生命補助装置を外すか、という問題が立ち上がることになった。さらに、ここに「臓器移植」が絡むと、新たな問題が立ち上がってくる。

臓器を求める者の眼には、この患者(「脈打つ死体」)はまたとない贈り物に映る。人工的な延命法が、臓器を取り出すために必要な時間を稼いでくれるのである。 *()内、引用者補足

 例え自発的な生命維持が不可能な状態にあるにせよ、生きた人間の臓器を取り出して移植するわけにはいかない。そこで、脳の機能に基づいた新たな死の定義、すなわち「脳死」が提案されることになった。ありていに言えば、ちょっと早めに死んだことにしよう、ということだ。

 他方、移植技術の向上により、人間の臓器に対する需要が、供給をはるかに上回るようになった。1997年時点で、51,000人以上のアメリカ人が臓器の提供を待っており、このリストには30分ごとに新しい名前が付け加えられているのだそうだ。そして、アメリカでは毎年200万人以上の方が亡くなっているが、そのうち臓器提供に適した状態での死者は、25,000人程度に留まるようだ。

 市場主義的な考え方からすれば、需要≫供給という状態は損失、ということになる。

 そこで、延髄や間脳を含む「全脳死」だけでなく、人格などの高次機能を司る脳の領域、すなわち大脳新皮質の機能を失った状態も「脳死」に含めてしまおう(「大脳新皮質死」)、という動きが目立ちはじめた。不可逆的に人格を失った状態は、事実上生命を失ったとみなしてもよいではないか、ということだ。「脳死」より、もっと早く死んだことにすれば、その分、臓器の供給源が増やせる、という意図が見え隠れする。

 ところで、この拡張された新しい死の基準に従えば、無脳症の赤ちゃんは法的に死んでいるとみなしてよいことになる。そこで、次のような事例が生じた。

 1992年3月、テレサと名付けられた赤ちゃんが生まれた。彼女の両親は、妊娠中からテレサちゃんが無脳症であることを知っていたが、中絶はしないと決めていた。テレサちゃんを生んで、その臓器を必要とする他の赤ちゃんに提供しようと考えていたからだ。しかし、出生後、テレサちゃんの自然死を待つと、その臓器は他の赤ちゃんへの移植には適さないものになる可能性があった。医師は彼女が生きている状態で臓器摘出することをよしとしなかった。そこで両親は、彼女には脳幹機能はあるものの誕生時点ですでに「死んでいた」とみなすよう裁判所に願い出た。しかし裁判所は、この申し出を棄却した。そうこうしているうちにテレサちゃんは亡くなり、臓器は移植に適さない状態になってしまった。

 この裁判に対し、裁判所が迅速に脳死裁定をしなかったためにテレサちゃんの臓器が使えなくなってしまった、と多くのひとが憤慨したという。その一方で例えどんなに短いものであれ、テレサちゃんが生きていたことは確かだとする意見もあったらしい。

 この話は無脳症だけに留まらない。大脳新皮質死を「人間の死」と認めれば、永久的植物状態(PVS)やアルツハイマー病の患者さんも、その範疇に含まれることになる。

 倫理学者デイビット・ラムの言葉が紹介されている。

いまだ息がある死体という考え方は、倫理的に受容しがたい。たとえば、それをどう葬ればよいのか。呼吸を続けているというのに埋葬したり火葬することができるだろうか。それとも誰かが最初に死体を「窒息」させろとでもいうのか。 

  さらに、「死」を定義することは「生」を定義することにつながる。大脳新皮質の機能がない状態を「死」とすると、中枢としての脳活動が始まる二二週齢以前の胎児は「生」を獲得していないことになる。そうして、本書は「胎児マーケット」という章に続いてゆく。

 partⅣでは、なぜ人間の身体が、まるで自動車の部品のように扱われるようになったのかが、歴史的に考察される。一言でいえば、17〜18Cに出現した啓蒙主義の時代に説かれた「機械論」と「自由市場主義」が、時代とともにエスカレートして、それまでの自然観、生命観を侵食・破壊してきたためだとされる。

 機械論の嚆矢として、有名なガリレオが取り上げられている。

自然界は、形而上学的な見方や精神論から解明できるものではなく、定量的な測定や厳密な数学的解析を通してのみ理解できるというのがガリレオの信念であった。

 以下はガリレオに対する、科学史家ルイス・マンフォードの言葉。

彼の本当の大罪は、教会の教条や規範を含めたさまざまな人間の経験の全体像を、観測可能で、物質と運動のことばで説明できる、ごく限られた部分に置き換えてしまったことにある。

  ガリレオからはじまり、デカルトやラ・メトリーらが機械論的世界観を育てていった。この世界は神が創り給うた精巧な時計のようなものである。被造物たる私たち人間も、どれほど複雑巧妙であるにせよ、各種の部品からなる時計じかけの人形のようなものだ。そのような自然観が醸成されていったという。

 もう一方の市場主義の源流にはアダム・スミスがいる。利潤追求行動と市場原理とが「神の見えざる手」となって機能し、すべての人びとに善をもたらすと説いた。

 スミスの放任主義は後続の学者たちに受け継がれ、「個々人の自然な経済的希求は、すぐに社会全体の福祉へ寄与する」と主張され、「個人が自らの利益を追求する過程で、需要と供給の「法則」がすべての商品に働いて、その価値と生産量を規定することになる」自由経済の市場が発達していった。

 市場は発達とともに、それまで商品として扱えなかったものまで商品化してゆく。経済学上、「商品」は売買を目的として生産された物品である、と定義されるようだ。しかし、個人の利潤の追求が公共の善になるアダム・スミス的世界の中では、需要と供給に任せるまま、本来は「商品」でないもの、すなわち土地(自然)や労働(時間)も「商品」としてみなされるようになっていった。

人生を時間単位の労働賃金と引き換えに切り売りすることは、生命そのものを取り引きすることや代理母契約で子宮を貸し出すことと紙一重である。自分の時間という、人間の最も貴重な 所有物を切り売りすることをよしとする思考と同じ思考パターンが、今度は人間の最も貴重な人体そのもの、血、臓器、精子卵子の切り売りをもよしとするのである。さらに、もし、機械や便利な装置の発明が特許化できるなら、どうして生きた「発明品」を特許化できないことがあろうか、となる。人間をはじめとする生物もまた工業化システムのなかで、売買したり契約の対象となりうるはずである、ということになる。労働を人間性から切り離して考えることができるなら、人体もそれと同じように切り離して考えられない理由はどこにもないはずだ、となっていく。

  出生前に遺伝的な疾患の有無をみつけ、生まれてくる生命を選別することの延長線上には、遺伝子を調べて「頭の良い子」や「運動のできる子」を選別する優生学的世界が待っている。出生前に病気の有無が判明する社会では、病児の出産・育児・教育などは「自己責任」の下で行われるべきだという不寛容な社会が生まれる可能性がある。

 思想はエスカレートする。ひとつの思想の「究極と根源」にまで考えを巡らせて、ここからさきは“カムイ”の領域、と線引きする「知恵」を、果たしてリンゴをかじった私たち人間は持つことができるだろうか。

 分厚くて読了は大変だったけど、いろいろと考えさせられる一冊だった。

生命に部分はない (講談社現代新書)

生命に部分はない (講談社現代新書)

 

2018-23  イラストオペラブック1.トゥーランドット

プッチーニ 作、伊熊よし子 解説『イラストオペラブック1.トゥーランドット』読了

 偶然、パヴァロッティの《誰も寝てはならぬ》を、YouナントカTubeで観て雷に打たれてから、一年ほど経つだろうか。そういえば大本の物語を知らなかったな、と本書を手にとった。

 G.プッチーニが作ったオペラ《トゥーランドット》の解説書。あらすじが絵本のように読める。その他、原作(カルロ・ゴッツィの戯曲)、プッチーニの生涯、名演ディスクガイドなどの情報が記されている。

 本書は本当に入門書といった感じだったので、次はもう少し踏み込んだ解説書を読んでみようと思った。

イラストオペラブック(1)トゥーランドット

イラストオペラブック(1)トゥーランドット

 

2018-22 ストラディバリとグァルネリヴァイオリン千年の夢

中野雄 著『ストラディヴァリとグァルネリ ヴァイオリン千年の夢』、読了

 兄弟子の推薦図書。

 天才バイオリン職人、アントニオ・ストラディバリ。奇才バイオリン職人、グァルネリ・デル・ジェス。2人を中心に、バイオリンという楽器の魅力を記した一冊。

 著者によれば、バイオリンは魔性の楽器なのだという。中でも、ストラディバリウスには、霊的な力さえあるという。私は現在、努めて唯物論的に世界を眺めようとしているので、そういう語りには、少し警戒してしまう。

 人知を超えた現象や存在を否定しようとは思わない。しかし、そのことは、それらの現象や存在を、なるべく人知の中に取り込もうとする努力を怠っていいということを意味しない。

 本書を読みながら、何かを論じようとするときの、姿勢について考えた。例えば、対象のもつ熱量を、余すところなく伝えようとする姿勢。また例えば、対象という熱源から、ある程度離れて、対象の全体像から浮かび上がらせようとする姿勢。

 本書は前者の姿勢で記されている。著者はバイオリンを愛していて、本書にはその愛が溢れんばかりに詰まっている。バイオリンにまつわるよもやま話がたくさん紹介されていて、読んでいて飽きることはない。

 例えば、チェロを含めた、バイオリン属の楽器は、そもそも、人の声を楽器で作ることを目標としていたらしい。私はあらゆる楽器の中でチェロの音色が一番好きで、その話を知り合いの声楽家の方にしたら、チェロの音色は人の声に近いから、そこに惹かれるのではないか、と教えてもらったことがある。でも実は、チェロの方が人の声に歩み寄っていたことを知って、興味深かった。

 ただ、本書を読んで、著者がどれほどバイオリンを愛しているかは理解できたが、私自身がバイオリン愛に目覚めたかと問われれば、心許ない。それは、やはりバイオリンの魅力を「魔性」や「霊的」という言葉に集約させてしまった点にあるように思われる。なぜバイオリンが魔性を持ち、ストラディバリウスは霊性さえ獲得したのか、そこに私の興味はあったし、著者もその点に触れてはいる。しかし、最終的にはバイオリンに対する愛が、徹底的な解明の眼を鈍らせているように、私には思えた。

 以前、『とめられなかった戦争』加藤陽子著の感想を書いたときに、次のような文章を引用をした。

近代史をはるか昔に起きた古代のことのように見る感性、すなわち、自国と外国、味方と敵といった、切れば血の出る関係としてではなく、あえて現在の自分とは遠い時代のような関係として見る感性、これは未来に生きるための指針を歴史から得ようと考える際には必須の知性であると考えています。

 ここで述べられている「知性」のあり方は、近代史を見るときにだけ求められるものではないと思った。何かを論じようとするときにも通じるあり方だと思った。

 といって、情熱を持って語ることが悪いというわけではないとも思うので、何かを論じようとするときの態度には、ある種の「魔性」が秘められているのかもしれない。